Les Rêveries du promeneur solitaire

自分研究

先日、あるフルマラソンの大会に参加した。今年4月のデビュー戦に続き、今回で2回目のフルマラソンだった。反省のためにGPS時計の記録をここに整理しておく。

ペースの推移

以下のグラフはy軸が分速(m/min)でx軸が距離(km)。ランナーはペースを1キロ当たりの時間(min/km)で把握することが多いが、分速はその逆数(分母分子を逆転させた数字)になる。

全体的に山なりの形状になった。序盤10kmくらいまで緩やかにペースアップし、後半は徐々にペースダウンした。序盤のペースの遅さは混雑によるものと思われる。目標タイムをクリアするために、ジグザグ走行や路肩の上を走って人を追い抜く必要があった。尤も、序盤突っ込めなかった分、後半のベースダウンが少なく済んだのかも知れないから一概には評価できないところ。


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前回のデビュー戦とはコースも気象条件も異なるので単純な比較には無理があるが、比較対象があった方が評価しやすいので比べてみよう。

前回(黄緑)と今回(青)とを重ねてみると以下のとおり。ペースは全体的にアップし、後半に落ち込む幅も縮小した。全体を通した分速は前回174.8 m/minに対して今回190.0 m/minと+8.6%アップ。一方、1kmごとに区切ったそれぞれの分速の標準偏差は前回12.6m/minに対して8.0m/minと37%程度縮小し、ペースのブレは小さくなった。


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ピッチとストライドの推移

分速(m/min)は1分当たりの歩数(ピッチ)と平均の歩幅(ストライド)に分解することができる(歩数=sとすると、m/min=s/min×m/s)。

yの左軸をピッチ(s/min)、右軸をストライド(m/s)で示した推移は以下のとおり。ピッチと比較するとストライドは不安定で、山なりのペースは主にストライドの影響のようだ。ピッチは後半に時々極端に落ち込むことがあるが、これは補給時に一息ついているためと思われる。


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前回はピッチとストライドともに低下する傾向があった。特に30km以降のピッチは上下に大きくブレている。


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前回と今回を比較すると、ピッチの平均値は175s/minから184 s/minに上昇。標準偏差は7.5s/minから4.5 s/minへ40%程度縮小した。一方、ストライドは平均値が1.00mから1.03mとなり、標準偏差が0.04mから0.03mとなった。
ストライドの変化は誤差の範囲かもしれない。ちなみにGPS時計の計測した距離は、前回が41.66kmで今回が42.35km。42.195kmを挟んで690mの差が生じている。

ピッチとストライドの散布図

同じデータを使用し、y軸をストライド、x軸をピッチとする散布図を以下に示した。赤い星印は平均。ピッチとストライドはの相関係数は+0.15と無相関に近い。


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ピッチとストライドを乗じた積がペース(分速)なので、それぞれの点からy軸、x軸に垂直に線を引いてできた長方形の面積がペースを表す。したがって点が右上にあるほど面積が広がりペースが速い。ただ、ここで面積を比較するためには原点をゼロにする必要があるが、視認性を優先して最小値は途中から始めている。

ちなみに、分速に時間(分)を乗じた積が距離(マラソンの場合は42km余り)であることから、ピッチとストライドを辺とする長方形を底とし、これに高さとして「時間(分)」を乗じた3次元の長方体の体積は距離を表す。だが、面倒な割に実益が少なそうなので視覚化するのは見送った。いずれにせよ、マラソンでは距離(体積)は決まっているから、目標タイム(高さ)を決めれば、あとは「幅×奥行」で帳尻を合わせる以外にない。

前回のデータの場合。全体的に幅が広く右肩上がりに散らばった形状。相関係数は+0.76と高くなった。一部の区間でピッチの低下と同時にストライドも縮小し、ペースが大きく落ち込むことがあった(終盤の上り坂で歩いた時ではないか)。


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前回と今回を重ね合わせたものが以下のグラフ。青が今回で黄緑が前回。全体的に右上にレベルアップしバラツキ具合も縮小したことが分かる。


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ピッチとストライドの散布図(10kmごと)

散布図(今回)を10kmごとに分割して示したものが以下のグラフ。時系列に線でつなぎ、視点に、終点にを付けた。11-20kmのバラツキが小さく最も安定している。後半、次第にバラツキが大きくなり、さらに終盤はストライドが縮小傾向になった。


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ただ、前回の終盤はもっと不安定だった。


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取りあえずのマトメ

  • 前回との単純な比較は困難だが(前回のコースは小さな坂が多く、今回のコースは比較的平坦)、今回はピッチが安定したことが目標ペース(底の面積)の維持にある程度寄与したと言えそう。ただし、後半の補給の時間を短縮することでもっと改善する余地があるかも。
  • 一方、ストライドは引き続き後半に短くなる傾向が目立ち、改善の余地が比較的大きそう。
  • 欲を言えば全体的にストライドの水準を引き上げたいところ。
  • 具体的な改善策は、これ以外のデータとか定性面の評価もないといけないかなあ。また、足だけに注意を向けるとかえってうまく行かなくなる虞がある。ペースを上げるだけである程度自然にストライドは広がるので、それを維持できる力があればいいのかしら。まだまだ基本的な練習が大事ということか。

暇人

暇人に天国はない。
暇人には国もない。
暇人は皆、その日暮らし。
イソジンは明治からシオノギへ。
Love and Peace

―J.レノン名言集より-(ウソ)

12月8日、ジョン・レノンが亡くなってから35年たった。
世の中では盛り上がっているのだろうか?
10周年の1990年にはイラクがクェートに侵攻。当時、米国ではこの曲(??)の放送が自粛されたと聞いた。その代り、湾岸戦争が起きた翌年の1991年にはホイットニー・ヒューストンの「星条旗よ永遠なれ」がヒット。

20周年の2000年はどうだったかしらない。その翌年の2001年には9.11があって再び放送自粛。そんな中でニール・ヤングがテレビで歌って話題に。一方、H.ヒューストンの「星条旗」が再発されて再ヒット。この時、彼女はすでに体を悪くしていたようだ。結局3年前に亡くなった。

30周年は知らない。

35周年の今年は大きなテロがあったりして、盛り下がっているのだろうか?今週(12月9日)、マドンナがパリの「現場」でゲリラライブをやって、そこで歌ったという報道を見た。


そういう自分はジョン・レノンとかビートルズについてあまり知らない。自分の世代でいうとたぶん常識程度かそれ以下のレベルだろう。いい曲すぎると退屈してしまう性格だからだろうか?

退屈してしまうのは、それだけ体に馴染んでいるからと言えるのかもしれない。当たり前のことを何度も繰り返し言われるとウンザリするみたいに、美しすぎるのも飽きてしまう、のかなあ。

ちなみにフランク・ザッパは先日、没後22周年だった。もうじき生誕75周年の日がくる。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その7

ワクチンとリスク認知について

インフルエンザの予防接種の季節がやってきた。今シーズンのワクチンは従来のA型2種類、B型1種類のウィルスに対応した3価ワクチンから、B型も2種類にして4価ワクチンになるらしい。だから値上がりするという報道を見た。


トーメーニンゲン♪ アラワルアラワル~♪
ウソを言っては困りますっ!
アラワレナイのがトーメーニンゲンです~!

リスク管理の恩恵は標的とするリスクが顕在化しない(アラワレナイ)というものだから、なかなか実感しづらい一方で、うまくいかなかったときばかり目立ってしまう。「ウソを言っては困ります」なんて思われてしまう。

ワクチン接種による感染症予防も、日本のような経済的に豊かな先進国で、特に健康な成人の場合(ようするに世界の中でも強い人たち)には、アリガタミを感じるのは難しいだろう。小さな確率とはいえ重篤な副作用の可能性もあるからなおさらだ。

当たり前かもしれないけれど、ヒトは天災よりも人災を嫌う。ヒトはなにか行動を起こして1人を犠牲にするよりは、なにもせずに5人死なせるほうを選ぶかもしれない。安易には非難できない。「トロッコ問題」という難題もある(↓)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

しかも、公衆衛生は全体主義的で「上から目線」のパターナリスティックな側面がないともいえないから、反発を感じるヒトがいてもまったく不思議ではない。

ヒトは意識的かどうかにかかわらず、嫌いなものに対しては、恩恵を過小評価しリスクを過大評価しがちだという。逆に好きなものに対しては恩恵を過大評価しリスクを過小評価する傾向がある。

端的にいうと、好きなものはローリスク・ハイリターンで、嫌いなものはハイリスク・ローリターンと映る。福山雅治はローリスク・ハイリターンで、ふつうのおっさんはハイリスク・ローリターンである。当たり前か。この当たり前のココロの傾向には感情ヒューリスティックという名前がついている。

感情ヒューリスティックは誰にでもあることで、自分や他人に好き嫌いで判断するなと掛け声をかけることはできても自ずと限界があるから、そういうのがあることを前提にして柔軟に対応できたほうがいいのかもしれないね。

ワクチン報道について

こんなことを書いたのは、次の報道を見たからだ。

■インフルワクチン:乳児、中学生に予防効果なし - 毎日新聞
http://mainichi.jp/shimen/news/20150830ddm001040149000c.html

または、
http://www.msn.com/ja-jp/news/techandscience/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E4%B9%B3%E5%85%90%E3%80%81%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%81%AB%E4%BA%88%E9%98%B2%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%81%AA%E3%81%97/ar-AAdKfNO

インフルエンザのワクチンを接種しても、6〜11カ月の乳児と13〜15歳の中学生には、発症防止効果がないとの研究成果を、慶応大などの研究チームが米科学誌プロスワンに発表した。4727人の小児を対象にした世界的に例がない大規模調査で明らかになったという。

これは事実なのだろうか。この論文を確認してみよう。

元論文について

プロスワンはいわゆるオープンアクセスジャーナルで、オンライン上で全文を無料で読める。

Effectiveness of Trivalent Inactivated Influenza Vaccine in Children Estimated by a Test-Negative Case-Control Design Study Based on Influenza Rapid Diagnostic Test Results(インフルエンザ迅速試験結果に基づいた検査陰性症例対照研究による小児における3価不活性インフルエンザワクチンの有効性)
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0136539

冒頭の要約部分を以下に和訳してみた。ただし、読みやすいようにコマメに改行して箇条書きにしてみた。

要約
  • 我々は、2013-2014シーズンに日本の22の病院において医学的看護のもとで検査確認された6ヶ月から15歳の小児のインフルエンザに対するワクチンの有効性(VE)を評価した。
  • 我々の研究は、インフルエンザ迅速試験(IRDT)の結果に基づく検査陰性症例対照デザインによって実施された。
  • 38℃以上の発熱により我々のクリニックに訪れ、且つIRDTを受けた外来患者が本研究に登録された。
  • IRDTの結果が陽性の患者は症例として記録され、陰性の患者は対照として記録された。
  • 2013年11月から2014年3月までの間、合計4727名の小児患者(6ヶ月から15歳)が登録された。
  • インフルエンザA型が陽性だった876名のうち、66名はA ( H1N1 ) pdm09で、残りの810名のサブタイプは不明である。
  • 1405名はインフルエンザB型が陽性であり、そして2445名は陰性であった。
  • 全体のVEは46%(95%信頼区間[CI]39-52)。インフルエンザA型、A ( H1N1 ) pdm09、インフルエンザB型に対する調整後VEは、それぞれ63%(95%CI56-69)、77 % ( 95 % CI , 59– 87 ) 、26 % ( 95 % CI , 14– 36 )であり、6~11ヶ月の幼児においては、インフルエンザA型、B型いずれに対してもインフルエンザワクチンは効果的ではなかった。
  • インフルエンザワクチンの2回接種は、インフルエンザA型感染に対して1回接種よりもより良好な予防となった。
  • 入院加療したインフルエンザ感染に対するVEは76%であった。
  • インフルエンザワクチンはインフルエンザA型、特にA ( H1N1 ) pdm09に対して効果的であったが、インフルエンザB型に対してはそれほど効果的ではなかった。

新聞記事とは雰囲気が違っている。もともとB型には効き目がいまひとつと言われているようで、それを再確認する形の結論になっている模様。

「6~11ヶ月の幼児においては、インフルエンザA型、B型いずれに対してもインフルエンザワクチンは効果的ではなかった」と書いてあるけれども、これについては論文の本文を見ると、6~11ヶ月の幼児に対する有効性は、併存疾患などの要素を調整した後の数字で、A型30%、B型は不明、全体(A型+B型の合計)で21%となっている。

これだけだとA型と全体は多少なりとも効果がでているように見えるけれども、95%信頼区間がそれぞれ▲85%~74%、▲87%~67%と下限がマイナスになった。ゼロが効果なし。マイナスは逆効果を示す。95%信頼区間の中にゼロを挟んでプラスとマイナスに割れるというのは、5%の有意水準統計学上の有意差がなかったということ。

有意差がないということは、効果が確認できなかったということにはなるのだけれども、95%信頼区間は幅がとても広い。幅の広さは結論の精度が低いことを示している。この広さはなにも言えることがないくらいだと思う。

なんで精度がこんなに低いのかというと、真っ先に考えられるのはサンプルサイズ。実際にこの論文では6~11ヶ月のB型に関しては人数が少なすぎるとして評価を見送って不明とした。

6~11ヶ月の幼児の人数が215人。検査結果の内訳は、A型陽性が39人、B型陽性が10人、陰性が166人だった。

A型陽性39人のうちワクチン接種者は6人、評価を見送ったB型は、陽性10人のうちワクチン接種者は2人だった。すなわち、A型とB型の合計は、陽性49人で、うちワクチン接種者は8人となる。一方、検査陰性の166人のうちワクチン接種者は34人だった。

A型の場合でこの前紹介した2×2表*1を埋めるとは次のようになる。


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オッズ比は(6/34)÷(33/132)≒70.6%。つまり、A型検査陽性はワクチン接種によって70.6%に減った。ワクチンの効果(VE)は、29.4%(=1-70.6%)だ。ワクチン接種はA型検査陽性を29.4%減らした。この数字にさっき書いたような併存疾患、地域差、発症からの期間の影響を調整して、調整後VEを30%と見積もっている。

でも、一つの研究結果は一つの確率的事象に過ぎない。サイコロ振って1の目が出ても、サイコロの目が全部1だというのはおかしいから、統計学のテクニックを使ってこの結果の評価を行う。ここでは一般的な方法である区間推定を使っている。個々のサンプルのバラツキ具合から95%の頻度で的中する範囲を推定する。たとえば、同じ実験を100回やったら95回くらいはこの区間におさまるだろうと考えられる範囲。

サンプルサイズが小さいので95%信頼区間は▲85%~74%と大きく広がった。A型を74%減らすこともあり得るし、逆に85%も増やすこともあり得てしまう。これは効果がないことが分かったというより、精度の問題で結論が出せなかったという方が妥当だろう。効果がないとハッキリいうのなら、信頼区間はなるべくゼロ(オッズ比=1)に近い狭い範囲に落ち着かないといけない。

13~15歳も有意差が出なかったけれども、やはり人数が少なくて信頼区間が広い。また、他の年齢層と違って1回接種のケースが多いことも関係しているかもしれない。

ちなみに上の新聞記事では、とても大規模な調査で効かないことが判明したみたいに読めてしまう。よく読むと文法的にはそう書かれていないのかもしれない。プロが書いているだけあって予め逃げ道が用意されている文章な感じもする。そうだとすると意図的に偏らせているということになるのだろうけれどわからない。考え過ぎのような気もする。

症例対照研究(ケース・コントロール・スタディ)

今回の研究デザインである症例対照研究は、結果が分かってから、その前の時点を振り返って特定の曝露状況を調査するというスタイル。時間を遡る形のいわゆる後ろ向きの研究で、時間やコストなどのリソースを節約できるけれども、たとえば臨床試験のように時間の流れに対して前向きの研究と比較すると、一般論としてはバイアスが入りやすくて信頼性が劣るとされている。

ただ、事件は実験室で起こるのではなく現場で起こっているから、常に理想的な方法でなければ無意味ということではない。やれることをやって、理想と離れている分は、ある程度、結論を割り引いて考える必要があるかもということになる。

インフルエンザの流行期、38℃の発熱のある患者にインフルエンザの検査をすることは医療的にも意味のあることだから、医療上の必要性のない人を実験だけの目的で検査するより倫理上の課題も少なかったり、いろいろと都合がいいのだろう。たぶん。

オープンアクセスジャーナル

伝統的な論文誌の場合、投稿は無料で読者が費用を負担する。一方、オープンアクセスは投稿者が費用負担して論文を掲載してもらう仕組み。

メリットもあるがデメリットもあり、中には金さえ払えば内容を問わず掲載してくれる雑誌もあるとされる。プロスワンはその中ではマシな方だろう。というか、あまりにもインチキ科学誌が多いから、かなり真っ当な方と言えると思う。ある研究で、オープンアクセスジャーナルにインチキ論文を送り付けたところ、プロスワンはきちんとリジェクトしたらしい*2

それでも査読は比較的緩めで、その結果として内容は玉石混合なので、オープンなのはいいにしても、その割に自分のような審美眼を持っていない素人が読むには扱いがやっかいかもしれない。しょせん生半可なのに分かったつもりで読んじゃうとヤケドしそう。

けれども権威のある科学誌も完璧にはほどとおい。ヒトのやることだからひどい場合には捏造もある。そもそも予想に反して不都合な結果が出てしまった研究は、お蔵入りしてどの科学誌にも載らないケースも考えられる。これには出版バイアスなんて名前がついてる。

だから一つの論文で結論が決まることはなく、独立した研究によって繰り返し再現されることが重要になる。できれば方法論的により優れた研究デザインで。

本日のBGM

とりあえず今日はこれ。


*1:http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2015/08/23/212640

*2:https://www.sciencemag.org/content/342/6154/60.full “ PLOS ONE, was the only journal that called attention to the paper's potential ethical problems, such as its lack of documentation about the treatment of animals used to generate cells for the experiment. The journal meticulously checked with the fictional authors that this and other prerequisites of a proper scientific study were met before sending it out for review. PLOS ONE rejected the paper 2 weeks later on the basis of its scientific quality.”

ポジティビズム!「論より証拠」論 その6

モノアミン仮説-抗うつ剤の薬理学とうつ病の病理学

通俗心理学とfMRI占い

精神分析がそうだったようにヒトのココロを動かすストーリーは波紋のように広まりやすい。だって面白いんだもん。

さほど害がないものなら、いちいち目くじらを立てるのは無粋だし、だいいちキリがない...というより、自分もそれなりに面白がっている一人であることを棚に上げてしまうのも、なんとなく締まりが悪いような気もする。

心理学っぽいココロの占いもとても面白い。ウィキペディアによれば通俗心理学っていうのだそう。近年は似たような存在として芸脳人の先生方によるfMRI占いが隆盛している。通俗心理学よりもさらに科学テイストの効いた大がかりでオゴソカな魅力を持っている。

ホントーの脳科学

けれども、学問としての脳科学や神経科学はわりと微妙で地味な研究をやっているようだ。発展途上の学問で、ストーリーを解明するために欲張って深読みしようと力めば、いとも簡単に論理的に跳躍してナナメウエに飛んでいくオソレがある。

生きた人間の脳の活動を観察するのは、技術的にも倫理的にも制約が小さくない。生きた人間の脳ミソをカチ割って直接動きを覗くわけにもいかないから、間接的な証拠などを集めながら限られた手段で観察して、これらを手掛かりにあれやこれやと少しずつ探っていって小さな証拠を積み重ねる。気が遠くなる。待つしかない。

認知心理学など、他の分野である程度確立した仮説について、それを手掛かりにfMRIで確認したらこんな部位が活性化してました、みたいな研究も見かける。

たとえば最近の報道ではこんなのがあった。

■報酬選択脳どう動く? 今すぐ1万円か1週間後に1万2千円か : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO004347/20150831-OYTAT50079.html

神経経済学は神経科学の面からヒトの経済行動を説明しようとする学問で、行動経済学と神経科学を結び付けるようなものが多い。

行動経済学はヒトの経済行動を認知心理学的な枠組みをベースに説明するもの。神経経済学で認知心理学行動経済学の成果を応用・援用しているのを見かけることがある。

この記事に書いてある時間割引率という考え方自体は金融理論の基礎だ。同じものを貰うのだとすれば、すぐに手に入れる方が金利分お得である。時機が遠くなるほど危機(不確実性)も増える。将来に手に入れるものは、それをいますぐに貰える場合の価値に対して、不確実性を反映した金利に時間の大きさを掛け合わせた係数(ディスカウント・ファクターとか複利現価率という)を使って割り引くことになる。

ただ、行動経済学の研究で、ヒトの認知の傾向はこうした金融理論に基づいた合理的な割引率よりも高めであることが知られている、というか、はるか昔から朝三暮四という言葉がある。朝三暮四の猿と同様にヒトは傾向として利食いを急ぐし、多少のチャンスを捨てても手堅く利益確定したがる*1

うえの報道では、セロトニンの量と時間割引率に関する動物実験の結果も組み合わせて、ヒトに応用して、アミノ酸セロトニンの原料)の投与量別に行動の変化とfMRIの変化を観察して評価した、というものらしい。

いろんな仮説を組み合わせたり応用したりしていて、なんだか気が遠くなってくる。掴んでいるのは雲だったりしないのだろうか?

それなりの間接的な証拠をそろえたり、同様の研究を積み重ねたりしたうえで言っているのかもしれないのだけれど、この報道だけ見ると、なかなか道は険しそうな感じがしてしまう。どうなんだろう?待つしかないか。

薬理学のストーリー

薬理学という学問は、薬剤が体に対してなぜどのように作用するのかというカラクリを解明する学問。これが分かるといろいろと応用範囲が広がる。

風邪薬のCMとかには、「○○○○配合!」みたいな、長ったらしくて小難しい化合物を混入させていて、それが患部にうまい具合に作用するんで、だからとっても効いてスッキリしますっ!みたいなのがある。

ほんの短いCMの間でもそんな作用機序のストーリーを展開されると、なんだか説得されてしまう。男の子はかっこいい新兵器に弱いのだ。女の子のことはあまり分からないが、たぶん似たり寄ったりではないか。

でも、薬剤に効き目があるかどうかは薬理学のカラクリ論では分からない。仮説は立てられても実際に試して効果を確認するまでなんとも言い切れない。待つしかないか。なにを?

うつ病の病理学と薬理学

うつ病の病理を説明するストーリーにモノアミン仮説という伝統的な仮説がある。

神経細胞は細長くて両端は樹状突起というグロい形状をしている。神経細胞はこの樹状突起を介して他の細胞と情報のやり取りを行うのだが、樹状突起同士のあいだにシナプスという微妙なスキマがあって、そのスキマでモノアミンという神経伝達物質を受け渡すことで行われる。

モノアミンにはいくつか種類があって、セロトニンもその一つ。ほかにはノルアドレナリン、アドレナリン、ドーパミンなどがある。

モノアミン仮説は、この神経伝達物質が不足することでうつ病が起こっているという仮説だ。

どのような経緯でモノアミン仮説が主張されたのかというと、まずうつ病患者に抗うつ剤が効くという実証データがあって、その抗うつ剤が効くカラクリ(作用機序)に関する薬理学の研究成果を受けて、うつ病発症のカラクリ(病理)を推定した、という順番だった。

  1. ある化合物がうつ病に効くことが分かった(実証)。
  2. その化合物にはセロトニンを増やす作用があることがわかった(薬理学)。
  3. だから、うつ病は脳内のセロトニンの不足によって起こっている。たぶん(病理学)。

だいたいこんな具合だと思う。

ちなみに抗うつ剤は1950年代に偶然発見されたもの。もともと結核の薬として結核患者に投与したら、なんだかハッピーそうみたいな、きっかけはそんな感じなのだそうだ。

その後、モノアミン仮説のモデルをベースに新しい薬剤が開発されて、その効果が実証された。これはモノアミン仮説を支持する証拠の一つにはなる。ただし、絶対的なものではない。

生きた人間の脳ミソの動きを知ることはとても難しい。それにモノアミン仮説は、うつ病抗うつ剤の効き具合をうまく説明しきれない部分があって、そのうちひっくり返る可能性も十分にありそう、というか、教科書どおりの素朴なモデルとしては、すでにひっくり返っていると言っていいようだ。

想定したカラクリが間違っていたとしても、抗うつ剤が効くという事実には基本的には影響しない。現象が消えれば仮説は消える。けれど仮説が消えても現象は消えない。現象が本体だから。

もっとも抗うつ剤ってそんなに万能なわけでもない、というか、万能にはほど遠いのだけれども。すごくよく効くという人は、いるにはいるので見逃せないけれど、それほど大きな割合ではない。

限られた手掛かりで脳ミソの動きを占うのも、気まぐれなココロの動きを占うのも難しい。解明には長い時間がかかる。待つしかないか。

本日のBGM


待つしかない。

アミンとはアミノ基(NH2基)を持つ化合物のこと。そのうち、モノアミンは読んで字の如くアミノ基を一個だけ持っているモノを指す、だそうだ。でも、あみんは二人組なので一人では成立しえない。

なお、アミノ基に加えてカルボキシル基(COOH)を持つ化合物をアミノ酸という、だそうだ。

*1:他方、損失はずるずると先延ばしする傾向があるとされる。いわゆるプロスペクト理論。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その6

精神分析の対抗馬、行動分析とは...

抑圧されたリビドーが…

19世紀後半にフロイトが創始した精神分析サイコアナリシス)。無意識の構造や精神力動の概念、病因論や病理学は新しい時代への転換点となる画期的なものだった。

しかし一方で、考え方の枠組みとしては、主体(意識)にとってなかなか認識できないところに本質があるという、形而上学と類似した構造を持っていて、古い神様の代替として無意識という別の新しい神様を据えたという側面もあった。

机上の空論というのは言い過ぎにしても、精神分析は砂上の楼閣にたとえられることがある。ココロのカラクリを説明する魅力的なストーリーをうまく構築するのだが、内面の問題を扱うだけに土台となるはずの実証的な根拠が得られにくい。基礎がしっかりしていないと豪華な建物でもぐらぐらする。

フロイト自身がやっていたことは当時の時代のレベルとしてはマシな方だったのかもしれない。しかし、精神医学特有の難しさもあるためだろうか、19世紀から20世紀にかけて他の医学が急速な発展を遂げて実績を挙げるなかで、精神分析には古い権威主義が目立つようになる。

定められた枠組みの範囲内であれば、さまざまなストーリーが成り立つ。アーも言えるしコーも言える。理屈というのはもともとそういうものだ。だからこそ根拠が要るのだが、実証的な根拠が得にくいから権威を拠り所にせざるを得なくなってしまう。

古代、医者はシャーマンだった。同じ占いならブランドカの高い占い師に頼るのが無難そうに思われる。霊媒師にしてもそうだろう。そういうのって今でもワリカシよくあることではないか。必ずしも間違っているとは限らない。けれどもいささか心許ない。

実証的な根拠が確立しているのなら、ある程度の保守的な態度は妥当といえる。けれども権威だけをベースとした保守性は、それが優れたストーリーであっても神話と変わらなくなってしまう。そして信仰や戒律には迷信や偏見がつきまとう。

哲学者のカール・ポパーは、科学的な仮説とは何らかの観測データによって反証が可能な主張であるとしたうえで、反証が不可能な主張は疑似科学であるとした。そして、その疑似科学の例として精神分析を挙げた。都合の悪い事実があったとしても、アーいえばコーとなんとでも言い逃れできてしまう。

医学の発展に伴って、精神分析は主流の方法ではなくなった*1が、あの魅惑的なココロのカラクリ物語は、ポピュラーな文芸の分野では現在でも一定の影響力を保持しているし、日本の文化や社会常識にある程度は織り込まれているように思う。日本でもメディアに登場して世相を切る精神科医というのは、精神分析の色の強い人というのが、今にしてむしろふつうである。

キミタチ、サイコだよ!


プログレ界の遅れてきたスーパーバンド、UKが1979年に発表した日本公演アルバムから。ジョン・ウェットン(ベース、ボーカル)はステージの上から日本の聴衆に向かって「キミタチ、サイコだよ」と言い放った。その後、程なくしてUKは解散。

ところが、これが思った以上に日本の熱狂的なファンにウケたため、気をよくしたジョン・ウェットンは、これからはアジアで稼ぐぞといわんばかりに新たに結成したスーパーバンドをエイジアと名付けた(ウソ)。

この曲なんてもうすでにエイジアっぽい。こんな恥ずかしいタイトルの曲はプログレでは希少である。産業ロックサイコー。

なお、いまでも年に一度くらいは日本に来るが、「キミタチ、サイコだよ!」はお約束の決め台詞なのだそうだ。

反射的に滴り落ちる体液・・・

一方、精神分析にガン飛ばしてメンチ切ってタイマン張ってきたのが行動分析(ビヘイビア・アナリシス)。心理学のくせに心を研究の対象にしないという行動主義心理学。その中でも行動分析は徹底的行動主義といわれるキリコミ隊長である。

行動主義はあやふやであいまいで見えづらいココロなんてブラックボックスだと割り切ってしまう。開き直って観測可能な行動だけを研究の対象にして実験的な手法による実証を重んじる。

行動分析は内面からの説明を受け付けない。たとえば 「意志が弱いからタバコを止められない」というのはダメな主張だという。「意志が弱いからタバコを止められない」のか、それとも、「タバコを止められないから意志が弱い」のかどっちなんだかハッキリしない。行動の理由を内面に求めても、その内面の根拠を結局行動に求めてしまうとニワトリとタマゴのように循環してしまい、原因と結果をうまく説明できないのだ。

行動分析は、学習を行動の変容であると定義する。このような学習にはパブロフが犬の実験で実証した「条件反射」があることが既に知られていた。

パブロフが実証した条件付けは、もともと食べ物を口の中に入れるとヨダレがでるというのは特定の生得的な行動(=反射)をベースにして、そこにベルの音をくっつけることで成立させたものだった。

しかし、スキナーは不特定の自発行動とそれに随伴する結果によっても学習(条件付け)が成立することを示した。つまり、ある任意の自発行動の前後にある任意の刺激を随伴させて繰り返すことで学習が成立する。自発行動と随伴する刺激との関係はタイミングの問題であり、特に無関係なものでよい。

レバーを押す(自発行動)とエサ(随伴する結果)が出てくる箱にマウスを入れると、そのうちにレバーを押すことを学習する。

自発行動の頻度を増やす結果を好子 (コウシ)という。逆に自発行動の頻度が減る結果を嫌子(ケンシ)という。好子の出現により行動の頻度が増加することを強化といい、嫌子の出現により行動の頻度が減少することを弱化という。より一般的な表現だと好子と嫌子はそれぞれアメとムチに当たる。

また、弱化は好子の消失によっても起こる(好子の消失による弱化)し、強化は嫌子の消失によっても起こる(嫌子の消失による強化)。

暗い部屋で照明のスイッチを入れる (自発行動)とすぐさま明かりがつく(好子が随伴する)。スイッチと照明のカラクリなんて知らない小さな子供でも、部屋が暗いという外部環境条件に対して、スイッチを入れるという行動は容易に身につけることができる。部屋を出るときにスイッチを消すという行動は好子が随伴しないのでなかなか習慣化しづらい。

なお、スイッチを入れるきっかけになる「部屋が暗い」という外部環境条件のことを弁別刺激といい、弁別刺激→行動→結果という流れのことを三項随伴性という。

たとえば、あるクセを直したいという場合には、まずそのクセの機能を分析する。そのクセも何らかの強化がなされて学習し維持されているからだ。随伴する弁別刺激(Antecedent events)、行動(Behavior)、結果(Consequences)を検討し特定する作業を機能分析といい、3つのそれぞれの頭文字をとってABC分析と呼んだりもする。

例えば好子(アメ)が特定できたら、それを取り除くことで、クセを弱化させることができるかもしれない。またはクセが出るたびに様子(ムチ)を随伴させることも弱化の方法の可能性の一つにはなる。

あるいは特定の状況でクセがでやすいのなら、その状況(弁別刺激)を変えたり避けたりすることでクセが出にくくなるかもしれない。タバコを止めたいのなら喫煙室に立ち寄らない。お酒を止めたいならお酒を売ったり飲んだりする場所を避ける。ダイエットをしたいのなら・・・主婦のダイエットは難易度が高くなる。喫煙もふつう食後にするので、食事が弁別刺激になって条件付けされているから、禁煙中は食後がつらい。

より効果的なのは、クセの機能を分析できたなら、同じような結果(好子/嫌子の出現/消滅)
を随伴する、比較的望ましい代替行動を考えて、それに置き換える方法だとされている。

部屋が暗いままで照明のスイッチを入れずにガマンするのはつらくて長続きさせるのは難しい。けれども暗い部屋が明るくなる別の方法があるのなら、別にスイッチを入れることにこだわる必要はない。

好ましくないクセを止めることのほかに、好ましい習慣を作ることも行動分析の得意分野だ。

外部環境によって経験すること(刺激)が変わり、経験が変わると行動が変わる。「学習=行動の変容」とすると、環境を調節することで学習させようというのが、行動分析の基本的な枠組みの一つなのだろう。

行動分析は、動物の調教、障害児教育、組織のマネジメントなど幅広い範囲に応用されている。また、行動変容のちょっとしたテクニックは一般にも知られていて、たとえば次のようなものがある。

目標をメモる。記録を取る。目標をブレイクダウンしてメリハリをつける。道連れの仲間を作る。他人に向かって宣言してイイネ!ってポチってもらう。

カンペキには程速いし、言うほど簡単にうまくいかないけれども、比較的マシな選択肢になる場合があるでしょう。

ノートルダムの背むし男



Pavlov's Dogというアメリカのバンドの2枚目のアルバム”At The Sound Of The Bell”の一曲目。つまりバンド名が「パブロフの犬」で、アルバムは直訳的に「ベルの音が鳴って」とかそんな感じか。邦題は「条件反射」だったそうだ。

ジャケットの絵には巨大なベルにぶら下がった人が描かれているが、パブロフの犬とは関係なく、ヴィクトル・ユーゴーの小説に登場するノートルダム大聖堂のベルと背むし男。この曲はヒロイン登場といったところか。

たしかドラムにはビル・ブラッフォードがゲスト参加していたと思う。音から推察するとこの曲には登場していないようだ。

*1:ジヤック・ラカンを輩出したフランスなど、お国柄によって勢力を保っているところもあるとらしい

ポジティビズム!「論より証拠」論 その5

実証主義が批判した形而上学って例えばどんなものなのか?

European Mood(西洋の気分)

たしか受験勉強で古文か日本史をやっていたときのこと。新井白石の書いた文章で、西洋は形而下のものは優れているけれど形而上のものは大したことない、みたいな評価を下しているのを読んだ記憶がある。

改めてぐぐってみたところ、それは西洋紀聞という書物だったらしい。密入国して捕えられたキリスト教宣教師を取り調べて、その内容をまとめたものなのだそう。

形而上、形而下という言葉はもともと中国から輸入された言葉らしい。今では西洋哲学の用語として使われるのが一般的だ。形而上というのは形を持たず形の上にあるもの、形而下は形のあるものを指す。

形のあるものはすべからく無常であり、時が経てば朽ち果てる儚くて不完全な存在だ。時間だけでなく空間の制約も受ける。ヒトでいうと肉体に当たる。

一方、形のない概念的なものは時間や空間を超越したものだ。ヒトでいえば魂とか精神に当たり、形而下のものよりも高度で本質的なものだ、と形而上学の人たちは考える。

形而上の概念には階層があり、概念の上には上位概念があり、さらにその上位概念がある。概念の階層の最上位にはカンペキな存在がある。現世の経験では認識できない究極*1で普遍的で不可分で永久不滅の根本原理。キリスト教のような一神教では、ふつう神様のことだ。

新井白石が、宣教師の尋問に関する書物で西洋の形而上学を低く評価したというのは、キリスト教を批判したということなのだろう。読みもしないで想像でいうのもなんだけれども。

西洋って実学は発達しているみたいだけどキリスト教の理念は未熟だねえ、みたいな感じなのだろうか。よくわかりませんが。。

ちなみに新井白石朱子学を修めた人で、朱子学では理気二元論という考え方があるのだそうだ。「理」は形而上の法則や原理を指し、「気」は形而下の物質やその運動を指すらしい。

祇園精舎の鐘の音。この世ではたとえ盛者でもあっけなく滅亡してしまう。気は一定にとどまらずに動きまわる。けれども、盛者必衰という無常のシステムは必然の法則であり、不動の「理」(ことわり)だ、…そんな感じか。巨人軍がいくら強くても「永久に不滅です」というのは理に適っていない、つまり非合理的なのだ、…そんな感じか(?)

アルケーは在るのけ?

気を取り直して、ここで再び(みたび?)「はじめにロゴスありき」。原文は”En arkhēi en ho logos”というのだそうで、直訳的には「アルケーはロゴスである(であった)」なのだそう。アルケーは、根源、原始、原理とかそういった究極の存在だ。

古代ギリシャには、「アルケー=水」(万物は水である)と主張した人がいた。火だと言った人もいるし、ほかには中国の五行説(火・水・木・金・土)と似たような元素を考えた人もいた。不可分な最小単位の粒子である原子論(アトミズム)を主張する人もいた。

自然の中にアルケーを見出す人たちもいた一方で、もっと抽象的なもの、形而上の超越的なものが根源、本質だと考える人たちもいて、ピュタゴラスの場合、それは数だと考えた。

聖書の場合には、「アルケー=ロゴス(言葉、論理、概念)=神」だと考えたということなのだろう。

ソフィスティケイトされたアテナイの社会

ところで、「ソフィスティケイトされた××」というのは、近頃はあまり使われていないのだろうか。「都会的な」とか「洗練された」とか「オシャレな」とか、そんな感じで、一昔前はもっと耳にしたことがあったように思う。

“sophisticate”を英和辞典で検索してみると、「洗練する」「あか抜けさせる」といった意味に加えて「世慣れさせる」とか、もっとネガティブなニュアンスで、「純真さを失わせる」とか「詭弁で人を惑わす」と言った意味があるようだ。

この単語の文字を分解してみると、「知」を意味する「sophy」、「人」を表す「ist」、形容詞の「ic」、状態の「ate」から成り立っている。つなぎ合わせると、「知的な人のような状態」とかそんな感じになるのだろうか。

一方で、“sophisticate”からお尻の”ate”だけを除いた“sophistic”という単語には「詭弁の」「こじつけの」「屁理屈を述べる」といったネガティブな方の意味がさらに目立つ。”sophism”とは「詭弁」そのものを指す。これはいったいどういうことか。

キーワードは「sophist」(ソフィスト)だと思う。民主制の古代ギリシャ都市国家アテナイでは弁論が重要だった。巧みに弁論術を操り、時に詭弁を弄して、他人を議論で打ち負かしたり、扇動したりすることが成功の道へのポイントになる。ソフィストは弁論術や「ハウ・ツーもの」の処世術などを教えることを商売として活躍したインテリたちのことで西洋哲学界のヒール役だ。

“sophistic”は「ソフィストみたいな」という意味であり、ソフィストみたいな状態が“sophisticate”。

ソフィストの代表的な人物が残した言葉に「人間は万物の尺度である」というのがある。この世のあらゆる基準を決めるのは人間自身なんだっていう、ちょっと傲慢な感じもするけれども一理はある。要するに主観を重んじる立場であり、客観的・絶対的な価値に懐疑的な相対主義の言葉だ。

哲人王にオレはなる!

ソフィストと鋭く対立したのが究極の真理を追及する哲学者ソクラテスとその弟子プラトンだった。ソフィストに向かって「汝自身の無知を知れ」と言い放ち、世俗に媚びずに刑死を選んだソクラテス

まぁ詭弁でやり込められるのも悔しいけど、正論はもっとパワフルで追い詰められると逃げ場がなくホントーに苦しい。ソクラテスに問い詰められた人たちはよっぽど頭にきたんでしょう。たぶん。

師匠を「民主的」に殺されたためなのだろうか、プラトンピュタゴラスの影響を受けながら不条理な現世以外に究極を求める神秘主義に走った。

プラトンの考えたアルケーは現世には存在しない形而上の概念でイデアという。この世の現象は真の世界に存在する本質(イデア)が投影された仮像にすぎないのだ。

また、プラトンは民主制が衆愚政治に陥るリスクを憂慮して、哲学エリート(哲人王)を頂点とする共産主義的な国家を理想とした。哲人王って要するにそれって自分のことだよね?ポジショントーク

究極のプラトニック・ラブ💛

プラトンは少年を愛した。少年愛自体は当時さほど珍しいものではなかったようだ。ただ、世俗的なものが嫌いなプラトン先生は当然ながら(卑猥な意味での)エロに対しても否定的であった。プラトンが言うには、少年を愛することは肉体や性愛を超越した精神の愛であり、究極的にピュアな愛なのだ。

このような主張から、後世に「プラトンみたいな恋愛=Platonic love」という言葉が残ることになった。この言葉はしばしば「ポジショントーク」、じゃなくて、「純愛」と訳される。

一方でキリスト教は同性愛を非合理的で神の意志に反するから罪だ、みたいにいう。理(ことわり)も語る人が変われば正反対のこともある。人間は万物の尺度?

リーズナブルな理性

合理主義は、宇宙の秩序や法則である「理」(ことわり)、神様の意志である自然の摂理を認識し、それに従う考え方である。

現世にいる不完全なヒトが「理」を認識することができるのは、神様とつながっているイエス・キリストがこの世に現れてくれたおかげでもあるが、ほかにはヒトの精神に「理性」という神に通じる性質・能力があらかじめ備わっているからだ。

「理性」は英語で”reason”で、「推論」のことを”reasoning”という。「理性」を正しく使って推論すると「道理」を理解することができる。「道理」も英語で”reason”だ。もう「ワケ」”reason”が分からなくなってきた。

なぜヒトに理性が備わっているのかというと、それは神様がヒトだけに特別に与え給うたからである。ヒト様はもっと物質に近い下等動物とは根本的に異なるのだ。動物は、魂はあるが精神は持っていない。理性は精神に宿るから動物には理性がないのだ。

でもクジラやイルカは賢いからウシやブタより高等かもしれない。ではヒトのなかでも精神障害者知的障害者はどうなのか?動物に近いのか?

純粋に究極を強く求めると、理屈で割り切り過ぎてバランスのない極端な考えにつながるかもしれない。

こんな不味いメシはホントーの料理ではない!ホントーの料理は究極的なものだ!

理念や理想に憧れるのはよいにしても、究極的(極端)になればなるほど、排他的になって多様性を否定するようになったり、世俗や現世を軽蔑して孤立したり、原理主義の過激派になったりするかもしれない。

神学論争の名において

プラトンの一世代後の時代、アリストテレスプラトンよりも現実路線をとって、イデアの代わりにエイドスとヒューレーというのを考えた。これはさっきの朱子学理気二元論に似ていると思う。

エイドスは理でヒューレーは気だ。エイドスは概念でヒューレーは素材。エイドスはヒューレーとともに一体として実在する。

カトリックは勢力拡大の過程でプラトンアリストテレスの哲学を導入した。カトリックが欧州を支配するようになると、思想信条や言論は厳しく統制され、哲学はもっぱら神学者が行うようになった。これをスコラ哲学という。西洋哲学にとって冬の時代とされる。寒い時代だと思わんか?(ワッケイン指令)

空中戦の不毛な議論のことを神学論争というけれど、スコラ哲学ではまさしく神学論争が巻き起こった。個を超越した形而上の普遍の概念が実在するかのどうかが大きな論争となったのだ(普遍論争)。

普遍概念は本質であり、プラトンイデアのように個の実存に先立って存在すると主張する実念論に対して、イギリス人のオッカム*2は「そんなのただの名前にすぎないんじゃね?」という唯名論を唱えた。オッカムは「シンプル・イズ・ベスト」を唱えた(?)ことでも知られている(オッカムのカミソリ)。

唯名論は危険思想だった。普遍概念が実在しない名ばかりのものだとすれば、普遍概念の最上位の階層に君臨する神様の存在が揺らぎかねない。オッカムは異端として失脚したけれども、近代にさかんになったイギリス経験論につながったという説もあるそうだ。

デカルトが始めた近代の合理主義に対して、イギリス経験論は形而下の経験可能な事実に注目する立場で、形而上の理屈や本質論よりもエビデンスを重視する実証主義につながるものだった。実存主義も実存は本質に先立つという主張だ。


ちょっと中途半端だけど長くなったから今日の雑談はこれくらいにしよう。まぁ、受験生が哲学だのロックだの言ってたら、受験勉強なんか不毛に思えてきて集中できないけどな。誰のことかは秘密だけどな。そもそも数学の成績がもう少しマシだったら、ホントーは「理」系に行くはずだったのに。。

本日のBGM

邦題は「究極」。イエスのベーシスト、クリス・スクワイアに哀悼の意を表して。
この曲はプログレが廃れてきた時に従来の大曲主義(?)を止めてイメチェンを図った時のもの。
アルバムのジャケットデザインも従来のロジャー・ディーンからヒプノシスに変更した。

*1:「究極」に替えて「至高」でも可

*2:ベッカムとは別人

ポジティビズム!「論より証拠」論 その4

バタフライ効果:カラクリと予測の関係

1.コスモスとカオス

はじめにロゴスありき。聖書的にいって宇宙は初めから秩序立っていた。完全無欠の神様はデタラメなものをこしらえたりしない。こういう宇宙をコスモスと言う。もともとは古代ギリシャ神秘主義ピュタゴラスが調和のとれている状態を指して使い始めた言葉という説があるらしい。

しかし一方、そのギリシャの神話で最初に生まれた神様は秩序立っていなかった。その神様の名前はカオス。はじめにカオスありき。そういえば、小学生のときに読んだ西遊記のプロローグでも、この世に最初に生まれた神様の名前は 混沌だった気がする。

2.オモテナシとカオス

ところで、最近米国で国を挙げたババ抜きゲーム (ポーカー?)において、不動産キング (ジョーカー?)がただでさえクリーンとはいいきれない不動産業界のイメージをさらに悪化させている感じがする。

我が国においては、金融緩和や円安などの事情からアジアマネーが流れ込むインバウンド投資が目下さかんである。国内富裕層の相続税対策もあって都市部のオフィスやレジデンスの不動産価格は上昇し、利回り(収益価格)はリーマンショック以前の水準まで低下(収益価格は上昇)している。

円安効果で観光業界もインバウンドリーマンショック東日本大震災&原発事故で低迷していたホテルの客室稼働率は復調、一部屋当りの単価も上昇傾向にある。宿泊部門の売上高=客室1部屋当たりの単価×客室稼働率。宴会やレストランはいまひとつ盛り上がりに欠けるようだが、宿泊部門は好調で売上が伸びている。

不動産投資としてのホテル投資は、事業運営の巧拙に左右される要素が大きいことから特異的な難しさがあり、こういう不動産をかっこつけて「オペレーショナル・アセット」と呼ぶ*1

しかし近頃は、楽観的なシナリオのストーリーを描きやすい投資環境になった。また、都市部の質の高いオフィスやレジは価格上昇によって十分に利回りを取れなくなったため、投資対象として物色される物件の種類や地域の裾野は広がってきた。ホテルにも積極的な買い姿勢を見せる人が増えているようだ。リスクオン!

3.レバレッジ効果:不動産王にオレはなる!

カラクリをきっちり解明すれば、結果の予想も簡単になるのだろうか?

ホテル投資とは、ホテルオーナーになることであり、通常、ホテル事業の運営は業者 (オペレーター)に任せることになる。稼げるオペレーターをいかにして雇うかというのが一つのポイントで、成績不良のオペレーターはオーナーから首を挿げ替えられることもある。

ホテルの売上げから事業運営のコストを差引いた利益をGOP*2という。そこからさらにオペレーターへのフィーと固定費産税・保険料などの不動産保有コストを控険した後のすべてがオーナーの取り分。ホテル投資はトップライン (売上高)とボトムライン (利益)の格差が大きめらしい。つまり売上高利益率が低め (経費率が高め)。

売上と利益との関係において固定費はテコの原理のように作用する。売上げが少し変化するだけで利益が大きくブレるのだ。これを経営レバレッジという。売上高利益率が低く(経費率が高く)、かつ経費全体に占める固定費の割合が大きいとレバレッジの効き具合は大きくなる。

仮に現在、売上高利益率を20% (=経費率80%) とする。売上高10,000に対して利益が2,000、費用は8,000としよう。ここでは便宜的に費用のすべてを固定費と仮定する。

ホテルのお値段は、現在の相場が利回り5%(利益÷価格)で取引されているとすると、40,000になる (購入価格40,000=利益2,000÷取引利回り5%)。

購入費用はモトデ (自己資金)が12,000、残り28,000 は借金でまかなう。今なら金利は低い。借金もまたレバレッジとなる。このレバレッジ財務レバレッジという。金利を固定金利で年1%とすると、毎年支払う利息は280 (借金28,000×1%)となる。

オーナーがホテルから受け取る利益は2,000だから、利息を支払っても1,720が手元に残るカラクリだ。モトデに対する利回りは14.3%(1,720÷自己資金12,000)にのぼる。この数字は株式会社でいうと目下流行中のROE(株土資本利益率)に当たる。ウハハ‥・


ではここで売上高が10,000 から11,000 へ増収した場合について考えてみる。費用はすべて固定費だから8,000 のまま。利益は2,000 から3,000 になる。経営レバレッジによって売上が10%増加しただけで利益は1.5 倍になる計算だ。さらに支払利息控除後の手元の儲けは1,720 から2,720 に増える。約1.58 倍。モトデに対する利回りは、なんと22.7% (2,720÷12,000)。不動産王にオレはなる!ウシシ・・・

それに加えて、ホテルの収益性が改善すれば、資産価値が値上がりしてキヤピタル・ゲインも見込める。ここでは財務レバレッジがより効き目を発揮する。ホテルの資産価値が10%アップして44,000になれば自己資本は16,000(資産価値44,000-借金28,000)に。モトデは時価ベースで33%増える。フフフ…フハハハハ…ダイトーリョーも夢じゃない!?


でも、この道はいつか来た道。この好環境はいつまで続くのだろうか?中国経済は不透明さを増している。米国は遠からず利上げするといわれている。東南アジアなど新興国通貨は下落。原油などのコモディティも下落。銀行の態度が変わってお金の流れが急に止まることもある。海外マネーは浮気者で風向きや潮目が変われば余所へ飛び立つ。円高に振れればアジアの来日客も減るかもしれない。

客室の稼働率が下がってくると、競争激化やテコ入れの目的で単価を値引かざるを得なくなったりする。稼働率×単価=売上高。稼働率が10%下がって単価を5%引き下げたとする。稼働率が復活すればよいが、そうならなければ稼働率低下と単価下落とのダブルパンチで売上は14.5%低下する (1-90%×95%)。

売上高が10,000から14.5%減少して8,550になれば、費用8,0O0を控除した利益は550になる。ここから借金の利息280を支払うと手元に残るのは僅か270。かろうじて黒字を確保。

しかし、ホテルの収益性の低下に加えて将来への不透明感から、これまでの楽観的なシナリオは脆くも崩れ去った。するとリスクプレミアムが増大して取引利回りに上昇任力がかかる。取引市場はババ抜きゲームの様相へ。

ホテルから上がる利益水準が550 となり、同時に取引別回りが購入時の5%から5.5%へ上昇した場合、単純計算で資産価値は10,000になる (550÷5.5%)。購入価格の4 分の1まで下落。これに手元になんとか確保した儲け270を足しても、借金28,000 には焼け石に水。実質的な債務超過に陥る。キャッシュが回っていれば即死は免れる。だが、危険を察知した銀行が担保の積み増しを要求してきた。担保に差し出せる資産は...ない。レバレッジが逆回転して急速に収縮。大富豪から大貧民へ。

このお話はフィクションであり、投資のスキーム (カラクリ)も単純化している。カラクリが明解だったとしても、前提のちょっとした変化が結果に大きな変化を及ぼすため将来を見通すことがとても難しい。想像をはるかに超えることがある。



想像するより現象を骨身の髄に刺せよ
血潮が錆びる前に

4.バタフライ効果とカオス(と青春時代)

ブラジルで蝶が一匹はばたくとテキサスで竜巻が起こる。そんな性質をバタフライ効果というらしい。気象が決定論的な物理法則で説明できるとしても、その法則性が指数関数的なものだったりすると、パラメータの微妙な変化が予測結果 (天気予報)を大きく左右することになる。

パラメータには技術的にどうしても誤差は避けられないから、その誤差や端数処理、ちょっとした入力ミスなどに振り回されて予測は不確実で確率論的なものになったりする。こういうのをカオス理論というらしい。

カラクリが分かっていたとしても、即、結果をズバリ言い当てられるとは限らない。はじめにロゴスありき、でも結果は事実上カオス。

ちなみに些細な出来事がその後の歴史を大きく変えたなんていうストーリーは、最中では胸にトゲを刺すようなことばかりかもしれないけれど、青春時代のように傍から見ている分にはドラマチックで楽しいから、バタフライ効果ポップカルチャーでよく取り上げられるなんて話がウィキペディアに書いてあった。

おまけ:テリーボジオとバラフライ効果 (本日のBGM)


ガールズメタルバンドのAldious。この分野はまったく知らないのだが、このバンドに最近テリーボジオのお嬢さん*3がドラマーとして加入したらしい。

バンドから正式なリリースはされていないようだが、ボジオ師匠がFacebookでオレの娘がバンドに入ったぜとか言っちゃってるし、奥さんもブログに書いちゃってるんで。

なお、この動画(バラフライ・エフェクト)は前のドラマーの時代のもの。ボジオお嬢のドラムはYouTubeに上がっているものを見た限りでは、もうちょっと軽めでメタルっぽくないかな。シャープでキレのあるタイプのような感じがした。

*1:ちなみに、かっこはつけてもよいが括弧(「 」)は特につけずとも可である

*2:Gross Operating Profit

*3:デイル・ボジオとの間のお子さんではなく、今の奥さんの連れ子でボジオ師匠と血縁関係はない。