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Eureka!/Positive Reaction!

Rêveries du promeneur solitaire

時は金なり

72の法則

72の法則は、複利計算で倍加時間を簡易に推定する方法のこと。72を金利で割った数字が元本が2倍になる大凡の複利回数を示す。年複利なら、複利回数=年数となる。

たとえば、金利が年3%の場合、元本が2倍になる年数はだいたい24年(=72÷3)、年5%ならだいたい14年(72÷5)とか、そんな感じ。

複利は利子が元本に加算されてそれが次の利子を生む原資になるから、元利の価値は雪だるま式に増大していく。金利が3%の場合、1年後の元本は1.03倍(1+3%)となり、2年後にはそれの1.03倍(1+3%)^2、3年後にはさらにその1.03倍(1+3%)^3に増える。24年後の元本は約2.03倍(1+3%)^24。たしかに24年で2倍になった。5%の場合でも14年で1.98倍だ。(1+5%)^14=1.98.

なるほど。すばらしい。この法則は一説にはアインシュタインが発見したという(でも、たぶん誤情報)。

金利r(年複利)で運用した場合のn年後の元本は、(1+r)^n倍になる。元本が2倍になる年数を求めるというのは、(1+r)^n=2となる時のnを求めているということだ。

復讐のログ

ここで対数logの復習。

3^2=9

上の数式は「3の2乗は9である」。logを使って表すと、

log[2]8=3

となる。「2を底(テイ)とする8は3である」とか、たしかそんな感じ。同様に、log[2]16=4、log[3]27=3、log[4]16=2など。

さっきの72の法則にもどると、「元本が2倍になる年数を求めるというのは、(1+r)^n=2となる時のnを求めている」。つまり、「 (1+r)を低とする2はnである」。

n=log[1+r]2

だんだん滅入ってきた。しかし、今の時代、エクセルのlog関数を使えば簡単に計算ができる。

72の法則による計算結果とlog関数を使用した正確な計算結果とを比較してみた。表に示した金利6%から10%の範囲はけっこう正確だ。しかし、金利を100%まで上げると1年だけで倍になるのだから、金利が高くなるに従ってだんだん誤差はマイナス方向に開いていくはずだ。

無限に連続

反対に金利を低い方向に動かしても誤差はプラス方向に広がっていく。金利を極限までゼロに近づけていくと、2倍になるのに必要な期間は無限大になる。無限大なのだから、雪ダルマの回転数を年一回に制限するなんてセコイことはやめにして、常にゴロゴロと転がり落ちているとしよう。このように常時連続して複利計算が行われている時に、「72の法則」は、実際には「約69.3の法則」になることが分かっている。

それは、2の自然対数が0.69314718……だからである。Log[e]2、「ネイピア数e」を低とする2は0.69314718……。ああ、滅入ってくる。とにかく、自然対数的には「72の法則」ではなくて「69の法則」なのだ。過去の金利が高かった時代にたまたま72がしっくりきたのではないか。今やゼロとか場合によってマイナスだ。

ちなみに3の自然対数は約1.99なので3倍になる期間は「199の法則」、4は1.39で「139の法則」とかそんな感じになる。

対数が発見されたのは16世紀末頃、ネイピア数は17世紀末頃に発見されたらしい。アインシュタインの時代よりももっとずっと昔。

昔なら、ひたすら計算を繰り返すという職業があったみたいだけど、今の時代は自然対数はエクセルのln関数で簡単に計算できてしまう。倍加時間はさっきのlog関数を使ってもいいし、以下の式でも計算できる。

倍加時間=ln(2)÷ln(1+r)
ただし、r>0

2の自然対数を「1+金利」の自然対数で割った数字。割るだけで算出できるのはとっても便利。

このような対数を使って常時複利が行われているという仮定(連続複利)は金融の理屈ではわりとよく使われる考え方で、なんで使われるのかというと、実態がそうなっているというより、おそらく計算が便利だからではないかと思う。たぶん。
連続複利の収益率が正規分布に従うと仮定すれば、確率論的な計算もけっこう単純化できる。

おまけ1(ベース)

ちなみに日頃親しんでいる10進法の表記、一、十、百、千、万・・・は、10を底とする数字の捉え方のこと。

10^0=1
10^1=10
10^2=100
10^3=1000
10^4=10000

log(10)1=0
log(10)10=1
log(10)100=2
log(10)1000=3
log(10)10000=4

「底」は英語で「base」。底をわざわざ音読みしたりするより、素直に「ベース」と言った方が、滅入り具合が少なくて済むかも。

おまけ2(半減期

2の自然対数(≒0.693)は、化学反応や核反応における半減期(濃度などが半分になる期間)の計算にも使われるのだそう。

半減期=ln(2)÷反応速度定数(または崩壊定数)

さっきの倍加時間の計算式とそっくり。

ちなみにマイナス金利において元本が半減する期間を算出する場合には以下の式で求まる。

元本の半減期=ln(1/2)÷ln(1+r)
ただし、r<0

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★シアトリカルな最期

  • A.14℃の冷水に60秒間手を浸した後、温かいタオルを渡す。
  • B.14℃の冷水に60秒間手を浸した上で、さらに追加30秒間。ただしお湯を入れて温度を1℃上げる。

AとB、冷水に曝されてイヤナ思いをする時間の長さは同じ。両方を被験者に体験させたうえで尋ねると、8割がBの方がマシと答えたという。

これは心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンによる「ピークエンドの法則」の実験として知られている。ヒトはピーク時と終わりの時の印象が強く記憶に残るらしい。正直のことろ、ほとんどそれしか記憶に残らないと言ってしまってもあまり差支えない。

そういえば、子供に勉強を教える際、最後に与える課題は多少難易度を落としても「できた!」という印象の残りやすいものにすること、なんて話を子育て中には読んだりしたなあ。あれもそうか。オワリヨケレバスベテヨシ。

CさんとDさん、ともに69年間の人生だった。Cさんははじめの10年間貧しくてたいへんな苦労をしたけれども、残りの59年間幸福だった。一方、Dさんは最初から59年間幸福だったけれども、晩年の10年間は貧しくて苦労した。

人生を通じて体験した幸福や不幸の質や量はCさんDさんともに均しいとして、どっちがマシな人生と感じるか。感じ方はヒトそれぞれでいいんだけど、多数決だとCさんかなあ。

楽しい体験をしたい、と旅行に行く。そこでとても楽しい体験をする。こんなニュアンスの「体験」という言葉は近年よく目にする。しかし、実際に体験できるとしても旅行の直後にその記憶をすべて失ってしまうとしたら、ヒトはすすんで体験しに行くだろうか。

カーネマンによると行かないと答える人が多いらしい。このようなケースでは体験よりも記憶の方を優先するヒトが多いようだ。厳密にはヒトは体験をしに行くのではなく記憶を残しに行くのだという。体験しないで記憶だけ作られるなんて場合はどうなんだろうね。


デビッド・ボウイが亡くなってそんな話を思い出した。突然の訃報に驚きながら数日前に発表されたアルバム★(ブラックスター)をポチった人は多く自分もその一人。オノレの死を意識しながら作ったアルバムということで、よくそこまでするものだなあという感じもするけれど、最後に強い印象を残していった。

デビッド・ボウイは、基本的に70年代の人で80年代初頭のレッツダンスが人気のピークだった。英国ではストーンズに並ぶほどの人気ロック歌手と聞いたことがあるけれども日本ではどうだったのだろう。

正統派ブリティッシュロックでもなく、アメリカンロックでもない。ブルース色は希薄で、筋金入りの硬派ロックンローラーの目には軽薄でチャラいと映るのか、少なくともそっち方面からの評価はそれほど高いとも言えない人だったと思う。

けれども、ミーハーな人気とともに地味で内向的というか文学オタク風の少年少女からカルト的な人気があった人でもあり、他の英国系へそ曲がり歌手とファン層が重なっていたりする、と思う。たとえば、ピーター・ガブリエルケイト・ブッシュ、ブライアン・フェリー、あと、ピーターハミル師匠も一応混ぜて^^;。

亡くなった後の扱いの大きさには、個人的にはちょっと意外な感じもした。やっぱりなんだかんだで大スターなんだろうなあ。スマップほどじゃないけどさ。

今回の芝居がかったやり方はカルト系大スターらしい最期なのかもしれない。でもそんな公的な死とは対照的に、私的な死は保守的なものだったと伝えられている。つまり家族に看取られながら安らかに眠ったという。ちょっとデキスギではないか?まあ、本当かもしれないし、多少脚色があるのかもしれない。本当のことなんてこの際どうでもいいかな。


露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢


なぜに秀吉?

本日のBGM




Youtubeの公式チャンネルで最後に公開されたPV。闘病中の迫真の演技。タイトルの「ラザロ」は聖書に登場する乞食で、死後、苦労が報われて天国でハッピーになった。一方、この乞食を救わなかった金持ちはそうならなかった。オワリヨケレバスベテヨシ。


David Bowie - Lazarus Lyrics | MetroLyrics
http://www.metrolyrics.com/lazarus-lyrics-david-bowie.html

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The Perfect Stranger

他人事のような言いぶりで恐縮ですが、自分はおそらく現代音楽に興味がないと思われる。主観を言えば昔から「少しばかりは興味はある」と思っているものの、これまでまともに現代音楽を聴いたことがないという事実を振り返ると積極的に興味があったと言えそうにない。

今も主観的には「少しばかりは興味はある」と思ってはいるものの、たとえば今後一週間以内に具体的な行動を起こそうという予定はない。だから、自分を他人のように外側から眺めてみた「ありのまま」の姿は、興味があるようには見えないというのが妥当な線だと思う。

内面の主観と外見とどっちが「ありのまま」なのかは一概には言いづらい。主観を軽視すると本末転倒になりかねないかもしれない。ただ、主観が感じ取れるのは意識にのぼってくる範囲内で、その背後にはアクセスできない。「少しばかりは興味はある」という主観は表層的な思い込みに過ぎないのかもしれない。

興味がないと思ってやっていないことと、興味があると思っているのにやっていないこととは、主観上は異なっているように思えるのだけれども、行動自体はさして変わりはない。その一方で、苦手で嫌いだったはずのランニングを今の自分がやっているというのは、我ながら不思議で面白いものだなあと思う。

それこそ思い込みを原動力にその気になっているものの、自分らしくないことをやっている自覚はあり、他人を演じているような気分になることもある。出来具合は「ありのまま」というか「それなり」ではあるけれど、それにしても「主観的な自分らしさ」からもっと遠く外れたことだって案外できるようになるかもしれない。

なんてね。

テニスやゴルフはさすがに遠すぎるけれど、現代音楽なら比較的近場な感じがする。主観的には^^; まあ、個人的な趣味の話だから自由でお気楽なものだ。


さて、ピエール・ブーレーズという現代音楽の偉い作曲家が亡くなったというニュースを見た。どっかで聞いたことがある名前だなと思ったら、フランク・ザッパの曲の指揮をやったことのある人だった。



上の曲は、1984年発表のアルバム、’Boulez Conducts Zappa: The Perfect Stranger’の1曲目に収録されたタイトル曲。

Perfect Stranger(赤の他人、見知らぬよそ者)というのは、現代音楽界におけるザッパ、ロック界におけるブーレーズを指しているという説明があるようだ。わりとザッパらしい曲と思う。

Boulez Conducts Zappa: Perfect Stranger

Boulez Conducts Zappa: Perfect Stranger


おまけ

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

今回は以前に読んだこの本のことを思い浮かべて書いてみた。一年以上前に読んだものだから記憶はざっくりであいまいだ。タイトルは自己啓発本みたいだけどアメリカの心理学者が書いたわりと固めの内容で翻訳もプロ翻訳家でなく日本の心理学者によるもの。

原題は’Strangers to Ourselves’。 なんて訳したらいいのかな。直訳的には「私たち自身にとって見知らぬ人」とかそんな感じ?副題は'Discovering the Adaptive Unconscious.'「適応的無意識の発見」。

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どこかにあるのかディストピア

オレはオレだ。


トートロジー(同義反復)は論理的には無意味とされている。「オレはオレだ」はとてもシンプルな同義反復。「A=A」と述べているだけで論理的にはなにも説明していない。しかしながら、文学的というか、口語的というか、実際には前後の文脈次第で多様な意味を持つ。

なんだか当たり前すぎてウンザリしますね。

ところで「ユートピア」という言葉は英国のトマス・モアという人が16世紀に描いた理想郷のことだ。「どこにもない良い場所」という意味の言葉をモジった造語なのだそうだ。

だから、ゴダイゴのガンダーラ、「どこかにあるユートピア」という歌詞には、論理的には矛盾が内在している。シンプルに間違っている。

けれども、ポエム的にはむしろそこがポイントで、「どこにもないはずの素晴らしい場所がどこかに実在する」という含みを持たせることになる。

そして、その含みによってその後に続く「どうしたら行けるのだろう、教えてほしい」という言葉に、より一層の強い期待や切実な願いを込めることを可能なさしめているのだ-

こんなふうにイチイチ解説するのはヤボというものだし、余計なお世話である。ポエムなんてそれぞれ自由に読めばいい。

その「ユートピア」という書物には共産主義的な理想郷が描かれている。ところが20世紀になり、ファシズムやらソ連やら全体主義的な管理社会が実現した結果、ユートピアのネガティブな側面が「ディストピア」としてSF小説などを通じて描かれるようになった。

たとえば日本の漫画だと「地球(テラ)へ」なんか典型か。コンピュータに厳格に統制される社会。

さて、今年からマイナンバーである。取りあえずは税金と社会保障から。今後どの程度用途が拡大するのかはわからない。行政コストの削減や税金の取漏れにどの程度寄与するのだろうか。

もともと人にはひとりひとり記号が付いている。氏名だ。しかしながら改めて一人一人に番号を付ける必要があるのは、氏名が記号としての役割を十分に果たせていないからだ。

明治政府が平民にも姓を与えて組み立てた家長を中心とする家族制度は名も実も失って十分に機能しなくなった。その他の条件もずいぶん変わったし。

マイナンバーは氏名の補完なのか、それとも代替なのか。代替ならばマイナンバーができたんだから、極端な話、もう名前なんていらなくね?なんて。

たしかに番号よりは覚えやすいし実用的だけど、それなら実用に応じてみんな好きなように名乗ればいいじゃない。ポエムの解釈が自由なように。

名前を呼ばれて、うっかり返事をするとヒョータンのなかに封じ込められて、とろけてしまう。西遊記の金角、銀角のところで出てくる紅瓢箪のお話。

このツールは実名に対して反応した場合にのみ有効で、偽名(「空悟孫」など)に返事をしても何も起こらない。これは実名が実体と強くリンクしているという考えがベースにある*1

しかし、マイナンバーが何番だろうと「オレはオレ」であるように、どんな名前で呼ばれようと(または名乗ろうと)「オレはオレ」ではないか。

名は体を表すという言葉があるけれど本当だろうか。名ばかりのものではないのだろうか。氏名は「アイデンティティ」か、それとも「ID」なのか。

ということで、マイナンバーが選択的夫婦別性を許容するかどうかという問題につながるのか、つながらないのか、わかりませんが。

極端な話をしているのは承知しています。自分もサヨクにせよウヨクにせよ極端なのは凡人並にニガテだ。

ジョン・レノンは「想像してみなよ、簡単だろ」って言うから想像してはみるものの、言うは易し行うは難し。横山やすし西川きよし

自分が名前を変えたいと思っているわけでもない。でも自分の考えを他人に強制しようともあんまり思わない。他人からあんまり強制されたくもないからね。オレはオレだからさ。北斗の拳の無秩序な世界も怖いけれどディストピアも息苦しい。

孤立したいわけでもなくて、楽しくやれたらいいなあ。その程度のサル並のことしか考えてない。お正月だもの。



*1:ホンモノの紅瓢箪は偽名に対しても有効である。

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大磯ロングタイム

先日、湘南の大磯に行った。
前回ここを訪れたのは20年以上も前、大学のゼミの先生のお葬式だった。
正確な時期は忘れてしまったが、自分は社会人3年目くらいの時だったと思う。
前日くらいに勤め先にゼミの大学院の先輩から電話があり、
お葬式を手伝ってほしいとのことで休暇を取って大磯の教会へ行った。
先生はカトリックの洗礼を受けていた。
たしか日本共産党の党員でもあった。
マルクス主義は唯物論なので矛盾しているのだが、まぁそんなものだ。
当日は忙しくて仏の顔は拝めなかった。
教会で仏はおかしいけどな。
先輩によるとすごく痩せていたと言っていた。ガンだったそうだ。
極細の外国の葉巻だか煙草だか妙なものをいつも吸っていた。

ゼミは人気がなくて、同期は自分も含めて二人だけだった。
はじめはもう一人いたのだが、栗本慎一郎(タレントとか政治家になる前の話)に心酔しているやつで趣味趣向が合わなかったみたいだ。すぐに辞めてしまった。
一つ上の学年のゼミ生はゼロ。皆無。
二つ上が三人で、そのうちの一人は大学院に進学していた。
修士のゼミ生はもう一人いて、合計二人。
この二人は学部のゼミもオブザーブしていたので、
学部のゼミは、自分たち学部生二人、修士二人と先生の五人だった。

同期のもう一人は、パンク・ニューウェイブが好きだった。
ニーチェとか坂口安吾も好きで多少影響を受けた。
ニーチェは、当時の現代思想、フランスのポストモダンの人たちの間でもブームだったからな。

その同期が学園祭の時、
インディーズのバンドのライブを開催するというので手伝いに行った。
正確には「駆り出された」。
仕事は単純な肉体労働だった。
ステージと観客の間は綱引きで使うようなロープで仕切られていて、
演奏中、猛烈なプレッシャーで押し寄せる観客に対し、
自分はロープの内側に対面で立ち、
そのロープを両手の全力で観客側に突っ張り返すことでブロックする、
という簡単なお仕事。
お客はよそから来た女子高生が中心。
衣装は黒いけれど派手だった。
ただ、トリを飾るバンドが地味だった。
女子高生がドン引きだったおかげで、
そこだけロープを離してまともに聴くことができた。
音楽雑誌フールズメイトの編集長、北村昌士のバンド。
衣装は黒くて地味だった。
音楽はプログレだった^^;
北村氏は、弦が5本あるベースギターに
これでもかとディストーションをかけて音を歪ませて
妙な暗黒の音を発していた。

夏休みの合宿は箱根のある民宿でやることに決まっていて、
その時には博士課程の人も一緒だった。
2、3人だけど。
その中に上海からの留学生もいた。
周さんという人でフランスにも留学経験があった。
本当は日本でビジネスの勉強をしたい、とこっそりと教えてくれたことがあった。
あの中に学者になった人は結局何人いたのだろうか。

就職活動の時期になると、大学院生から進学を勧められることもあった。
けれども先生は、大学院に行くならお金持ちじゃないとダメと言った。
共産主義者のくせに。
でも現実はそのとおりだったのだろう。たぶん。

先生は、大きな企業に行っても幸せになれないと言って、
ゼミのOBが働いているある企業を紹介され、そのOBにも何度かお会いした。
二つ上の先輩の一人は先生の推薦にしたがってその会社に就職していた。
大手電機のグループ企業だった。
でも最終的に、自分も同期もほかの会社に就職することになった。

つい最近、その会社の親会社が不祥事をからむ経営不振に陥り、
その会社を売りに出すという報道を見た。
液晶大手やファストフード大手もそうだけど、
たとえ盤石に見える会社でも来るときは一気に来るものなんだなあと思った。
あれから長い時間がたったけれど、
あの先輩は今頃どうしているのだろうと、
大磯に行ったこともあって、ふと思い出した。

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Poupée de cire, poupée de son(その2)

前回に引き続きYouTubeの動画から。




日本語字幕付き。ヨミガナまでついてる^^。こんな歌詞だったのか。「蝋の人形、音の出る人形」。”poupée de son”は「おがくず人形」の方が一般的な意味のようで、この歌詞の中では「音の出る人形」と掛詞になっている、らしい。

”son”って英語の”song”、「歌」と同じ意味だと勝手に思っていた。確認したところフランス語で英語の”song”に当たる言葉は” chanson”であり、”son”は単に「音」という意味なのだそうだ。キューバ音楽の”son”ももとの意味は「音」(スペイン語)とのこと。

ちなみに英語の”son”は「息子」だけれど、日本語では「まご」(孫)のことである。「孫」には「猿」という意味もある。人間の先祖は猿だったらしいけれど子孫もまた猿に帰るとでもいうのだろうか?「そん」なわけないか。そんなわけで来年はサル年ですね。

そんなことはさておき、今年5月にで、かつて東京タワーの蝋人形館にあった人形の一部が六本木のロック博物館に移されているということをご紹介した。

Poupée de cire, poupée de son / 夢見るクラウト人形
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2015/05/30/234209

ところがこのロック博物館は2か月後の7月末に閉館になってしまった。残念ではあるがあまりに趣味的でとても商売にはなりそうもなかった。仕方がない気もする。

どもあれ、そんなこんなで蝋人形の先生方のお姿をここにアップしておきたい。



クラウス・シュルツ(シュルツェ)



ルッツ・ウルブリヒ



ミヒャエル・ヘーニッヒ



リッチー・ブラックモア

伸脚しながらのギターでもう死にそうな表情。なお、「リッチー・ブラックモア 伸脚」でググるとけっこうヒットする。



トニー・アイオミ



ビートルズの首だけ

サージェント・ペパーズのジャケットで実際に使われたものだとか。
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド



フランク・ザッパ御大



ぜんぜん似てないロバート・プリップ御大。(奥はイアン・アンダーソン)

この蝋人形の先生方に再びお目にかかる日はくるのだろうか?それとももうすでにとろけてしまったのだろうか?

生身のフリップ御大なら最近来たらしい。なかなか好評だったようだ。自分はもう今更見なくてもいいかな、という感じだな。雰囲気的にフリップ御大もついに悟りの境地に達したのか、以前のように脂ぎってない感じがするからね。


なお、前回の記事でヴァージンレコードが創業当初にカンタベリー系のバンドを多く抱えていたと書いた。付け加えるとヴァージンはクラウトロックも多く手掛けていた。リチャード・ブランソンの趣味だな。趣味が傾いているんだから会社が傾くのも無理はないか。

著名な実業家と傾いた趣味がかぶるなんてちょっとばかし光栄である。あんまり関係ないけどな。つーか、自分はブランソンの売ったレコードを川下で買いあさった単なるカモの一人にすぎなかったのであった。^^;

あ、でも自分はあんまりお金持ってなかったから、ほとんどは中古で買ってテープにダビングしたあとで次のを買う資金のためにすぐに売っちゃったんだ^^; ブランソンさんごめんなさい。

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The Canterbury Tales

去年だか今年だか、とにかく昨シーズンの冬にYouTubeで見つけた動画が今も気に入っている。



叙情派プログレ、キャラヴァンの「ウィンターワイン」という曲。1971年6月、西ドイツの音楽番組”Beat-Club”での演奏とのこと。

特にバスドラの音が気に入っている、というか気になる。ガムをクッチャクッチャ噛んでいるようなベタベタした音。ンタッ、ンタッ、ンタッ、ンタッ。一般的には「よいサウンド」ではないだろう。どちらかというと品がない。けれどもなんだか気になる。

あとそれから3分40秒辺りからのオルガンソロの導入部、16ビートのハイハットがいったんフェイドアウトした後、8ビートになって再びフェードインしてくる。チッチッチッチと時計の針のように細かく刻む音。その上にオルガンがやはりフェードインして静かに乗っかってくる。この辺りの展開も現在の個人的なツボである。

この曲はこのバンドの代表的なアルバム、”In The Land of Grey and Pink”(グレイとピンクの地)に収められている(A面2曲目)。アルバムのバスドラはこんな妙な音はしない。展開のニュアンスもちょっと違う。

ドラマーはリチャード・コフランという人。派手ではない。そんなに有名人というわけでもない。キャラヴァン自体、それほど売れたバンドではなかった。けれども、ソフトマシーンと並んでいわゆる「カンタベリー系」の主要なバンドとされている。

カンタベリー系」は「カンタベリーミュージック」とか「カンタベリーロック」とも言われる。ウィキペディア英語版)には”Canterbury scene”とか”Canterbury sound”とある。音楽は基本プログレで当初はサイケ、次第にジャズに接近した。けれどもカンタベリー系は音楽の特徴というよりは人脈集団の色彩の方が強い。

イングランド南東部ケント州の都市カンタベリーで、ロバート・ワイアットのおばさんが運営する下宿屋にタムロしていた若者たちがバンド(ワイルドフラワーズ)を作って、やがてそこからソフトマシーンが分離独立してそれなりに売れた。残ったメンバーがこのキャラヴァンになった。

このバンドのベース&ボーカルのリチャード・シンクレアロバート・ワイアットの学校の後輩で、キーボードのデイヴ・シンクレアはリチャードの従弟。デイヴは後にロバート・ワイアットがソフトマシーンを離脱した後に作ったバンド(マッチングモール)に参加した。

その他にもこの人脈集団の中で多くのバンドが出来ては消えた。創業当初のヴァージン・レコードもカンタベリー系のバンドを多く抱えていたので、そのせいでプログレブーム終焉とともに経営が傾き、アナーキー・イン・ザ・UKで起死回生、なんて話も聞いたことがある。

プログレ演奏家もポップ化路線で生き残りを図った人が多くいた。ジェネシスやエイジアのようにビジネス面で大成功した人もいた一方で廃業した人も多かったようだ。

リチャード・コフランの場合、パブの店主になった。90年代半ばにキャラヴァンが再結成された後もパブ経営の方が主業だったようだ。2年前の12月に66歳で他界したらしい。

同じカンタベリー系のケヴィン・エアーズもこの年の2月に亡くなった。68歳だった。今年3月にはデヴィッド・アレンが亡くなった。77歳。オーストラリアからカンタベリーに放浪してきたヒッピー。先輩格で不良どもの憧れだった。


グレイとピンクの地+5

グレイとピンクの地+5

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