Les Rêveries du promeneur solitaire

帳簿の世界史

帳簿の世界史

帳簿の世界史


欧米の会計とその責任の歴史をテーマに書かれた本です。著者は南カリフォルニア大学の教授で主に西ヨーロッパの近代史を研究しているようです。

原典は2014年に出版されたもの。原題の「The Reckoning」 には「決算」「清算」のほかに「最後の審判」「報い」「罰」といった意味があり、本書の重要なキーワードになっています。サブタイトルは「Financial Accountability and the Rise and Fall of Nations」(財務会計責任と国家の興亡)。自分が読んだ日本語版は2015年に出版されました。翻訳は村井章子氏(ダニエルカーネマン「ファスト&スロー」など)。

主にルネサンス期から近代の西ヨーロッパや米国を舞台に会計の発達や国家財政まつわるエピソードが取り上げられ、終盤にこれらの歴史を踏まえて世界恐慌エンロン事件に代表される大きな会計不正、リーマンショックなど現代社会への考察が加えられています。

本書を通じて述べられていることは、国家や企業といった組織にとって会計が繁栄の強力な武器になると同時に腐敗や衰退の原因にもなりうる諸刃の剣だということ。

著者は会計責任がよく根付いた社会にはそれを支える倫理観や文化の枠組みが存在していたと述べています。しかしながら、これを維持することは難しく継続的に果たした国家はいまだかつてないとも指摘します。

資本主義と近代以降の政府には、決定的な瞬間に会計責任のメカニズムが破綻し危機を深刻化させるという本質的な弱点があり、経済破綻は金融システムに組み込まれているものだと考えています。経済破綻はいつか必ずやってくるもの、そう考えています。

かつて隆盛を極めた組織には、神による最後の審判への恐れなどから会計(accounting)や責任(accountability)を重視する文化が社会に根付いていました。会計制度の複雑化や相次ぐ不正による会計不信により、現代は会計に対する一般市民の関心が薄れて多くを期待しなくなっていますが、いつか必ずやって来る清算の日に備えるべく、かつてのような倫理的、文化的な高い意識と意志を取り戻す必要があると主張しています。


学者が書いた本ではありますが、学術的に緻密に考察されたものというよりは会計にまつわるエピソード集として楽しく読めました。基本的には政治経済の歴史をテーマに書かれたもので会計の技術的な側面についてあまり詳しく書かれていないため、個人的にはもう少し深く知りたいなと思う部分がありました。


===
<レビュー>
◆どんな英雄も、どんな大帝国も、会計を蔑ろにすれば滅ぶ| 鼎談書評 - 文藝春秋WEB
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1314

◆権力とは、財布を握っていることである | 東洋経済オンライン
http://toyokeizai.net/articles/-/65119?page=3

◆‘The Reckoning’, by Jacob Soll - FT.com
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/ec9c5abe-cb02-11e3-ba9d-00144feabdc0.html


<著者へのインタビュー>
アベノミクスは世界史上、類を見ない試み:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/230078/070300002/

アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?

アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー)

アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー)

今回ご紹介するのは、成人のアスペルガー障害に関する本です。出版は2011年。著者は児童精神科診療と成人発達障害デイケアを行っている臨床医です。

1.アスペルガー障害について

まず、アスペルガー障害について簡単に説明します。
アスペルガー障害は、第二次世界大戦の終わる1944年にオーストリアの小児科医である、Hans Aspergerが報告した症例に因んだ名称です。

ドイツ語による発表のためか、それとも他の要素もあったのか、戦後しばらくの間、埋没していました。しかし、1980年代に英国の研究者ローナ・ウィングによって再評価されたことをきっかけに注目され、WHOの国際疾病分類(ICD)やアメリカ精神医学会の精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)に導入されました。アスペルガー障害の導入により、自閉症はそれまでよりも幅の広い多様な姿を現すものとして捉えられるようになったのです。

現在、アスペルガー障害は、医学的分類としての役割を終えつつあり、2013年に改訂された現在のDSMでは自閉スペクトラム症(自閉症スペクトラム障害)に統合されました。一方、ICDは現在改訂作業中ですが、やはり次の版で「アスペルガー」の名称はなくなる方向のようです。

2.ウィングの三つ組み

先述のとおり、自閉症は「スペクトラム」という言葉が表すように多様ですが、ひとつの概念なので当然ながら共通点があります。それは、先述の英国の研究者ローナ・ウィングが提唱した三つ組みがよく知られています。

  • 社会的相互干渉の障害
  • コミュニケーションの障害
  • 想像力の障害

長くなるので説明は割愛しますが、この三つ組みは、自閉症スペクトラムの定義そのものと言ってもいいかもしれません。

では、アスペルガー障害の人にどのような問題が起きるのか。本書での具体的例を紹介します。

  • 話を適切に要約できない。
  • 他人の曖昧な指示を理解できない。
  • なぜか相手を怒らせてしまう。
  • 相手に合わせることができない。
  • 可愛げがない。
  • ミスや失敗がなにを引き起こすのか分かっていない。

しかしながら、これらはあくまでも症状であって現象としての特徴です。こうした特徴が現れる背後には、より本質的な特性があるのではないかと考えられています。支援や介入をより効果的に行うためには、本質的な特性を踏まえた対応が必要です。

3.情報処理過剰選択仮説

自閉症スペクトラムの本質的な特性はどのようなものか。さまざまな仮説が提唱されているようですが、本書では「情報処理過剰選択仮説」を提案しています。

この仮説は、「厳密な意味での科学的仮説というよりも、いわゆる作業仮説」であるとしながら、さまざまな仮説の総合的なもので臨床的な介入のための補助的な糸口かつ必要な道具であると著者は述べています。

情報処理過剰選択仮説は、脳の中で問題解決のためにおこなわれる並列的な複数の処理の流れの間で、「特定の処理のみが優先されて、他の処理が抑制されてしまう」という偏りがあるのではないかという考え方です。

「『いろいろな側面から認識できることを、一面からしか見たり感じたり覚えたりできないことにできないところに本質的な問題があるのでは?』という理解の仕方」を指しています。

4.アスペルガー障害の特性

本書は、情報処理過剰選択仮説をベースとしてアスペルガー障害の中核的特性を以下の3つに整理しています。

(1)シングルフォーカス特性
注意、興味、関心を向けられる対象が一度にひとつと限られていること。

(2)シングルレイヤー思考特性
同時的、重層的な思考が苦手、あるいはできないこと。

(3)ハイコントラスト知覚特性
白か黒かのような極端な感じ方や考え方をすること。

また、すべてではないにしても多くのアスペルガーが持っている周辺的特性の主なものとして以下の5つを挙げています。周辺的特性は中核的特性に比べて個人差が大きく人によってあらわれ方や程度が大きく異なります。

(1)記憶と学習に関する特性群
エピソード記憶の障害、手続き記憶の障害

(2)注意欠陥・多動特性群
不注意、衝動性など

(3)自己モニター障害特性群
自分の身体的・精神的状態に気づけない

(4)運動制御関連特性群
不器用、姿勢の悪さ、運動学習の障害

(5)情動制御関連特性群
気分変動、「やる気がコントロールできない」など

アスペルガー障害の人が日常生活で抱える現実の問題は、このような中核的特性や周辺的特性の組み合わせと環境との相互作用のなかから現れてくる。本書はこのようなメカニズムでアスペルガー障害の全体像をつかもうとしています。

5.適応の因子

ただし、ある特性の存在が必ずしも不適応を起こすわけではなく、適応の程度や性質はアスペルガー障害の重症度だけではなく、本人の信念(価値意識や世界観)、アスペルガー障害以外の特性(知能の低さや他の精神疾患との合併など)、環境(職場や家庭など)が適応の因子になるとしています。このうち信念について書いておきたいと思います。

6.適応を困難にしかねない信念の例

以下はアスペルガー障害の人が適応を困難にしかねない信念の例として挙げられているものです。

(1)他者との交流に高い価値を与える信念
この信念は社会に広く共有されたものと思われますが、対人・社会性の障害のあるアスペルガーの人がこのような信念にとらわれると、どうしても低い自己評価につながりやすくなります。

(2)自分の能力に見合わない過大な目標を設定して適度に修正できない
このような信念も挫折体験を増やし、自発性や意欲を失うというものです。これは自己モニター障害の特性とも関連しています。

(3)障害に対する差別的な価値観
診断を受けるまで自分を障害者と思っていないので、障害に対して「世間並みに偏見を持っている」ことが少なからずあり、このために診断や支援を受ける機会を逸失する、診断後に自己の障害との折り合いがつけづらいなどの弊害が生じます。

(4)被害的な信念
いわゆる被害者意識です。あまりに失敗経験を繰り返しすぎることと、失敗の原因を他者に求める傾向が重なることで、「他者=迫害者」とみなしがちになります。ただ、失敗の原因を自分に求めても自己評価を下げてしまうので難しい問題です。

そもそもアスペルガー障害は先述した中核的特性によって、一つの信念にとらわれやすく、他の考え方などとのバランスを取ったり折り合いをつけたりすることが苦手という面があります。論理的な思考が得意そうにみえる場合であっても、理路整然としているのは物事を単一の側面からしかとらえられないためだったりするわけです。

健常者は無意識のうちに本音と建前を適時適格に使い分けることや、相反する複数の信念を曖昧な状態で並列的・重層的に持つことができるのです。極端なダブルスタンダードは、やはり異常ということになりますが、ふつう適当にバランスを取っています。

7.不適応の種類

では、不適応にはどのようなものがあるのでしょう。すくなくとも次の5種類があるとしています。

  • 社会的能力に関係した不適応
  • 作業能力に関係した不適応
  • 自己統制に関係した不適応
  • 過敏性と易疲労性(疲れやすさ)に関連した不適応
  • 能力障害以外の困難に起因する不適応

ここでは、最初の「社会的能力に関係した不適応」について書いておきたいと思います。「社会的能力に関係した不適応」はさらに四つのタイプに分類されています。

(1)自己中心性による不適応
他者の視点を自分なりに推測することが困難。

(2)過剰適応による不適応
正義へのこだわりなど、社会的規範と適度な距離がとれずに燃え尽きてしまう。本音と建前の適切な使い分けが困難。

(3)関係過敏による不適応
自己中心性や過剰適応の不適応と異なり、他者について考える能力や社会的規範を建前として捉える能力を持っている場合であっても、逆に「他者の本音」という「知りようもない幻の世界」に苦しめられるケース。「他者とはこのようなものだ」という内的なモデルは形成されているものの、健常者のように精密化するのが困難で、客観的には的外れな「他者からの評価」を自己評価に当てはめすぎてしまう。

(4)調整能力の欠陥による不適応
必要な情報が与えられれば、対人的な状況を適切に解釈する能力を持っている場合であっても、実際の場面で必要な情報を把握できないケースや、できたとしても選択肢を自分では思いつけないレベルのケース。「頭ではわかっていても、その場ではできない」。

本書ではそれぞれの不適応について対策(主に介入策)が述べられていますが、ここでは割愛します。

8.対人・社会的能力の欠陥の3つの要素

健常者は「人の心」をなにか実体のあるものであるかのようにとらえることがふつうです。そして他人の行動を無意識のうちに「人の心」という概念で説明しようとします。これは幻想なのですが、そのようにとらえる機能を持っているのです。

ところが、アスペルガー障害の人にとって「人の心」の存在は、必ずしも実感を伴ったものではない場合があるようなのです。これは多数派であるふつうの人にはなかなか理解が難しい状態です。このことは「他人の要求や意図を即時に推測し、それに従う」というふつうのことが難しくなります。

なぜこのようなことが起きるのか、本書は次の3つの要素で説明できると考えています。

  • ①情報処理の過剰選択性(並列的・重層的な情報処理が困難)
  • ②前記①に起因する他者の要求や意図に従うという行動様式の形成における未発達
  • ③さらに②の結果として、「人の心」という説明様式を実感をもって共有できないことによる世界の見え方の差異

では、このようなアスペルガー障害の人がどのように生きていけばいいのか。

9.アスペルガーのサバイバル戦略

本書では、アスペルガー障害の人のサバイバル戦略として、いっそのこと「心」を理解しようとするのをやめてしまうという方法が提案されています。

心に依存せずに相互作用の形式に注目する方法です。つまり、社会的関係を調整する技術を身に着けることです。これを本書は「社会的フォルマリズム(形式主義)」を呼んでいます。

ただ、この方法では複雑な場面への対応は困難です。他者との関わりの量や深さを制限する必要があります。このことは一見不自由に見えますが、得体の知れない他者の心の世界に苦しんでいるアスペルガーの人にとっては、そのほうがはるかに自由かもしれない、と本書は主張します。

自らの意志で心を理解しようとすることを選ぶ場合には、それを尊重するとしながら、他者がそれを強要するようなことはあってはならないと強く主張しています。

アスペルガーの人を健常者にみせかけるのではなく、アスペルガーの文化や世界観をエンパワーメントし、積極的に主張していく必要を訴えています。

10.簡単な感想

自分自身はアスペルガー障害には該当しないと思いますが、対人関係は不器用なところがあり、本書にかかれているアスペルガー者の抱える困難やそのメカニズムについて、考えさせられるところも少なからずあり、自分に当てはめながら読み進めていきました。そして自ら生きづらい方法を選択している部分もありそうだと感じました。

もちろん自分の「対人関係が不器用」という考え自体はごく平凡で呑気なもので、おそらく多くの人が同じように感じることもあるのではないでしょうか。

ホントにやっかいな貸し借りの後始末

どーなってるの!?この島(国)は!



「れっしー」はキノボリカンガルー。元王子。元王子だけど声優はベジータの中の人ではなく、フリーザ様の中の人。フリーザ様も王子(コルド大王の息子)みたいなもんだけどな。

リースの業界では借手を「レッシー」と呼ぶ。借手をおだてている(?)わけではない。
貸手はレッサー。パンダみたいだと言っているわけではない。
もとは英語の「lessee」と「lessor」。

ちなみにレッサーパンダのは「lesser」で、「小さいほうのパンダ」という意味なのだそう。
「れっしー」はようするに、みど、ふぁど、れっしー、そらお、4人合わせてドレミファソラシドとのこと。
いろいろと勉強になるなあ。

ということで、今日はお勉強メモ。賃貸借に関する会計処理のルールについて今年になってIFRSの新基準を公開された。

◆現状のリース会計

リースとは物品を賃貸借すること。借手が貸手に対して賃借料を支払うことで物を受け取る。借りた物品を事業に役立てて賃借料を超える収益を上げられれば、借手は少ない資本を高速回転させることができる。賃借料は月々定額でやり取りされることが多い。

ファイナンス・リース

リースの中には、リース期間中の中途解約ができないうえ、その期間が対象の物品の使用可能期間(耐用年数)の大半を占めていたり、月々の賃借料の支払総額が物品を購入した場合の価格とあまり変わらなかったり、というケースがある。

この場合、法的な建前等はともかく、経済実態に関しては、物品を割賦販売で購入して月々定額を返済する場合とあまり違わない。他人からお金を調達して物品を購入するか、他人から物品を直接調達するかの違いに過ぎない。

そして、物品の貸手側は、往々にして借手に代わって金融機関から資金を調達して物品を購入しているのだ。そして賃借料は物品の購入コストに金利が上乗せされる構造になっている*1

この種のリースを金融取引との類似性からファイナンス・リースという。

・リース会計の歴史的な背景

借金して購入した場合と経済実態にあまり違いがないのにかかわらず、かつてファイナンス・リースは、通常の賃貸借と同様の会計処理だったため、借手は賃借料を費用としてP/Lに計上するだけだった。購入の場合にはバランスシートの借方に購入費用、貸方に調達資金を計上するのだから大きな違いだ。

物品ならお金と違って借りても借りてもバランスシートに表れないから、陰でレバレッジをかけまくって財務諸表の見栄えをよくすることができた。ただし、それはうまく回転している時の話。実態は解約不能のリース契約の場合、未経過分賃借料も確定債務であり、隠れ借金である。

過去の実例として、ある企業が破綻した際、簿外に多額の未経過賃借料を抱えていたことが後から発覚したことがあった。資金難のため固定資産を売却して現金化し、その代わり他人から事業用の資産をリースしまくっていた。実態としては倒産するよりもかなり以前から債務超過に陥っていたようだ。

そこで現在、この種のリース契約は、バランスシートにリース資産とリース債務という形で反映させるルールとなっている。ファイナンス・リースに該当しないリース契約はオペレーティング・リースといい、これらは通常の賃貸借の会計処理が許容されている(ただし解約不能なものは注記が必要)。

IFRSのリース会計

ここからが今日の本題。

近頃、日本の大企業でIFRS国際財務報告基準)を適用する会社が増えている。IFRSを決めているIASB(国際会計基準審議会)は、オペレーティング・リースに関してもオンバランスとする方向性を数年前に発表した。これはかなりセンセーショナルなものだった。その後、長期にわたる検討や調整の末、今年1月にようやく決着、新基準が公開された。

なんでオペレーティング・リースまでそんな議論になったのかというと、ファイナンス・リースを購入&金融取引の会計処理に近づけたところ、結果として従来の方法のまま残されたオペレーティング・リースの会計処理との差が開きすぎたということなのだろう。

ファイナンス・リースとオペレーティング・リースも同じリース取引なのだから、まったく異なる会計処理は不自然だ。生じた歪みは、かえって規定の趣旨に反する脱法まがいの不透明な取引を助長し、ひいては規定そのものの意義を脅かすに至る。そんな感じか。

たとえば、経営が苦しくなった企業が本社ビルを他人に売却して、現金を得るとともに多額の売却益を計上しつつ、売った本社ビルをそのまま賃借して居続けるという事例(セールス・アンド・リースバック)はあまり珍しくはない。しかしこの取引、経済実態は本社ビルを担保に借金をしたのとあまり変わらないケースもある。全部とは言わないが。

日本では資産流動化ブームで2000年頃からさかんに行われるようになった手法で、SPC(特別目的会社)への譲渡等に関しては一定の歯止めはあるが抜け目もある。売却先が系列企業だったりすれば、売却価格ですらフェアなものと言えるのかどうか、といった疑念等が湧く。契約上の建前は中途解約可能と書いてあったとしても実際どうなのか。ホトボリ覚めたら買い戻すのではないか?

このことは斜め方向から眺めれば知恵比べであって、淘汰圧からのサバイバルによって生じた進化とも言える、のかな(?)。みんな生き残りに必死なのだ。

・借手の会計処理

IFRSの新しいリース会計についてもう少し詳しく見ていこう。

・資産の計上

新しいIFRSの規定(第16号)では、借手の会計処理について「使用権資産モデル」というのを採用するらしい。考え方の枠組みは、賃貸借の対象となる物品の使用権が貸手から借手に譲渡されるというものだが、この使用権は日本の法律で規定されている賃借権とか借地権のような法的な権利とは性格が異なり、あくまでも経済的な価値だ。

つまり、将来支払うべき賃借料の割引現在価値の総和に初期コストや原状回復費用(後述)などの諸費用等を加減算して調整したもの。これはリース対象の物品についてDCF法で算定した場合の経済価値に相当する。

もっとも経済価値といっても、物品を調達するために必要なコスト面に着目したもの=コストアプローチによる経済価値だ。

インカムアプローチによる経済価値(借手が調達した物品を事業に役立てることで将来獲得できる収益の割引現在価値の総和)がこの使用権価値を下回ることが明らかになった場合、つまり投資の失敗がわかった場合には、固定資産と同様に減損する必要がある。

・負債の計上

負債にも賃借料の割引現在価値の総和を計上する。原状回復費用等は含めない(後述のとおり別途、資産除去債務に織り込む)が、残価保証がある場合にはこれを含める。

・次年度以降の会計処理

その後はリース期間の満了までの間、毎期、使用権資産を減価償却するとともに、負債は現在価値に割り引い際の金利を毎期上乗せして復元していく。

P/Lでは使用権資産の減価償却費と負債に上乗せした金利が毎期認識する費用になる。

リース期間全体を通じた使用権資産の減価償却費と負債の金利の総額は、実際に現金で支払った賃借料の総額と一致する*2

つまり、会計上は、現金で支出する賃借料について、仮に物品を購入していたら認識することになるであろう減価償却費相当額と、その購入に必要な資金調達に係る金利相当額に分解して認識するという構造になっている。

ただ、リース期間全体総額は現金支出と一致してはいても、期間中の認識のタイミングにはずれが生じる見込みだ。

使用権資産の減価償却方法は有形固定資産と同様とされており、IFRSの場合は定額法を採用する企業が多くなると思われる。賃借料の支払いもふつう毎月定額だから、定額法なら基本的にシンクロするだろう。

一方、金利は負債(未経過分の賃借料)に割引率を乗じたもので負債での大きさに比例する。このため金利は負債の残高が大きい前半に前倒し気味に認識することになる。

だから、減価償却費と金利を合わせた費用は、ある程度の期間が経過するまでの間、実際に現金で定額支出するよりも多めに認識することになりそう。

一方、期間後半は金利負担が軽くなり、費用計上額よりも実際の現金支出の方が大きくなると思われる。

この結果、初期段階は内部留保を増やす自己金融効果が生じ、後半はその逆の効果が生じる(利益が出ているのに現金が不足)だろう。

また、税務上の所得計算は、おそらく現行どおり現金支出や契約期間で均等割した損金認識が原則になるのだろうから、会計上の損益と税務上の所得との間の一時差異が生じる。したがって税効果会計の対応が必要になると思われる。

また、金利は営業外費用になるため、賃借料をそのまま費用計上する場合と比べて営業利益を増やしたり製造原価を減らしたりする影響が可能性としては考えられている模様。

なお、セールス・アンド・リースバック取引は、原資産のオフバランスが認められるような一定の取引であっても、その代わりリースバックに関する使用権資産の計上が必要になる。多額の売却損益の計上は難しくなりそうだ。

・サービス構成部分との分解

リース契約にサービス契約が内在している場合には、対価をリース料部分とサービス料部分とに区分するのが原則となる。サービスに対応する対価部分はリース料から除外して発生の都度、費用計上するのが原則となる。ただし、実務上の負担を考慮し、まとめてリース料として取り扱うことも許容される。

不動産であれば、賃借料には物件の取得コスト(減価償却費+金利)以外に、共用部分の水光熱費や管理費、土地建物の固定資産税等の公租公課、火災保険料修繕費などの運営費用に対応する部分が含まれているのが一般的だ。

でもふつうテナントはオーナーが支払う固定資産税の金額なんてわからない。共益費なら毎月定額を負担するケースが一般的だが、金額は必ずしも実費をダイレクトに反映しているわけではなく、賃貸市場の需給や競合物件との競争などの影響を少なからず受けている。共益費が第二賃料と言われる所以だ。

だから、リース料から区分してサービスの対価とできるかどうか、判断が必要になるのではないだろうか。

なお、今後はリース契約とサービス契約の境界線が規定の抜け目(知恵比べ)としてクローズアップされてくる可能性がある、のかもしれないなあ。わからんけど。

・リース期間

現状の日本のリース会計において、リース期間は通常、契約期間や解約不能期間を適用するのだが、IFRS16号では「リースの継続が合理的に確実な期間」とする必要がある。

契約上の体裁を整えて、都合よくリース期間を調整したりすることを防止する目的がある模様。

日本の建物の賃貸借、特に伝統的な普通借家契約の場合、2年程度の期間を定めているものの、借手サイドからは一定の解約予告期間をクリアすればいつでも解約可能である契約が多い。

けれども、IFRSでは、契約如何にかかわらず経済的インセンティブ等を考慮した期間とする必要があるそうだから、たとえば契約上は半年経過すれば解約が可能だとしても、実際に解約することが現実的かどうか、その期間での解約に経済合理性があるのか、といった具合の視点を加えて決める必要がありそう。

リース期間も面倒な判断になる分、知恵比べの戦場になる可能性があるかなあ。。。

・割引率

割引現在価値を算出する際に使用する割引率は、原則として貸手が賃借料に織り込んでいる利子率を使う。しかし借手が容易に入手できないことも考えられ(日本の不動産ならムリなのがふつう)、その場合には借手自身の追加借入利子率を使用する。この金利なら現状のマイナス金利のもとでも、おそらくプラスになるだろうから計算に困ることはなさそう。

・原状回復費用

不動産等の賃貸借契約では賃借期間が満了し、貸手に返却するのに際して、借手に原状回復義務を課すケースが多い。この費用を見積もって現在価値に割り引いた金額を使用権資産の価額に加算することが必要となる。

なお、負債サイドにおいても同様の金額を資産除去債務として認識することになる。こちらは今回のリース負債の金額に含めるのではなく、従来からのIAS37号「引当金、偶発負債及び偶発資産」を引き続き適用して測定することになるようだ。

◆貸手の処理

貸手サイドは、従来とあまり変わらず、ファイナンス・リースとオペレーティング・リースの区分が残る。

ファイナンス・リースに該当する場合、対象の物品はオフバランスし、それに代えてリース期間全体を通じた未経過分の賃貸料(リース債権)について、割引現在価値の総和等を資産計上する。オペレーティング・リースの場合は、原則として従来どおり通常の賃貸借処理となる。

◆適用開始

原則として2019年1月1日以降に開始される事業年度から。早期適用、初度適用、経過措置に関する特例措置がある。

◆雑感

かなり理屈っぽくてやっかいだ。ここまでやんなきゃダメなのか。複雑すぎてかえって一般人にはわかりづらい。仮にインチキされてもなかなか気づけないのでは?そんな印象。

日本の不動産賃貸の取引慣行は、いわゆるリース業界のリース取引とは異なっているから、もともと金融チックなリース会計の考え方になかなかなじみにくい部分が多い。気軽に不動産を借りたらたいへんな会計処理が必要になりそう。

割引現在価値の概念などはすごく難しいわけでもないものの、一般にはあまり馴染みがなく、なかなか取っつきづらいのも事実だろう。事務負担の大きさを考えると、例によってシステム屋さんにとっては特需になるのかなあ。

*1:メンテナンスなどの各種サービスなどがセットになっているケースもあり、実際はもう少し複雑

*2:ただし、原状回復費用等はあくまでも予想金額なので実際の支出とで差が生じることとなった場合(ふつう生じるだろう)、後で調整を行うことになる

不自由な選択

本日のBGM




You see, it's all clear
You were meant to be here
From the beginning


ほら、はっきりしてるだろ。
おまえはここにいるはずだったんだ。
当たり前に。

アプリオリタブララサか

イギリス経験論の先駆者、ジョン・ロックは、ヒトに生得観念はなく、生まれながらにして白紙「タブララサ」であると考えた。誰もが白紙の状態から始まって後からそこにいろいろ書き加えられていく。経験は「主体が外部環境から受け取る刺激」と言い換えることもできる。

一方、ドイツ観念論の先駆者、カント大先生はロックよりも100年程度後の世代。彼の場合は、ヒトには一定の認識能力や概念が生まれながらにして備わっているとした。この経験に先んじている認識や概念、生得的であること、検証するまでもなく当然であること、自明であることを「アプリオリ」という。

ウジかソダチか

ところで、一卵性双生児は、もとは同じ一つの受精卵から生まれてくるので、エピジェネティクスとか面倒くさいことを省けば基本的に同じDNAを共有している(共有率100%)。DNAのみならず、通常は生まれてくるまでの間の母胎内の環境も共有している。養子に出されたりしない限り、養育環境など生まれた後で受ける刺激(経験)も、同じではないにしても比較的似ていることが多い。

一方、二卵性双生児の場合、DNAの共有率は一般的な兄弟姉妹と同じく50%である。一方、胎内環境、生後の環境の共有率は一卵性双生児と同じ程度。

より一般的な兄弟姉妹の場合、DNAの共有率は前述のとおり50%。胎内環境、生後の養育環境の共有率は双生児よりも低い。ただアカの他人と比べればずっと高い。

生後すぐに養子に出された場合、他の兄弟姉妹とのDNAの共有率や胎内環境はそれぞれのパターンと同一(一卵性双生児=100%、その他=50%)であるが、生後の環境はほとんどアカの他人と同じレベル。

このような共有の状況を踏まえたうえで、「ある事柄」に関するそれぞれの兄弟姉妹間の差やアカの他人との差を比較することで、その差が生じている要因を遺伝的な素因による影響の度合とその他の要因による影響の度合とに分解して把握することが理屈上可能になる。ここでいうその他の要因は一般に「環境要因」と呼ばれる。

「ある事柄」というのは、たとえば、疾患、趣味嗜好、認知特性、行動、知能、果ては人格まで多岐にわたる。ある疾患の発症について遺伝的素因は○%で環境要因は×%だとか、知能の△%は遺伝子で決まるとかそんなふうな議論になる。

ヒトはアプリオリに持って生まれた遺伝的素因に外部環境などから受け取る経験を書き加えて変容しながら生きていくのだ。

遺伝か、環境か。氏か、育ちか。いや、待てよ。なんか忘れていないだろうか?「自由意思」はどこへ行った?

自由意思はひょっとしたら存在しない可能性がある。
ユメかマボロシのようなものかもしれない。
もしあったとしても、それほどゴタイソウなシロモノではないのかもしれない。
自由意思が限定的だということは、選択の余地が少ないということだ。
いずれにしろ、取り留めのない、比較的どーでもいー話ではあるけれど。。

ウンメーかグーゼンか

キース・エマーソンが自殺した。拳銃で自分の頭を撃ったらしい。一説には、晩年、退行性の神経疾患で指を自由に動かせなくなっていた。うつを患っていたと言う。

退行性の疾患はさぞや恐ろしく不安なものだろう。キーボード奏者が指の障害となればなおさらだ。うつになるのはむしろ自然のことのように思う。

うつ状態、手元には拳銃、たとえばそこに酒も一緒に置いてあったとする。そんな状況のもとで、たとえばの話、憂さ晴らしに酒を飲み、酔っ払った勢いで頭をぶっ放すようなことがあったとして、当然とまでは言えなくても、そんなに異常なことではないように思う。

運命か、偶然か、それとも自由な選択なのか。他人からみれば他の選択肢を採れたように思うし、採って欲しかったと思うけれど。


トリロジー(K2HD紙ジャケット仕様)

トリロジー(K2HD紙ジャケット仕様)

時は金なり

72の法則

72の法則は、複利計算で倍加時間を簡易に推定する方法のこと。72を金利で割った数字が元本が2倍になる大凡の複利回数を示す。年複利なら、複利回数=年数となる。

たとえば、金利が年3%の場合、元本が2倍になる年数はだいたい24年(=72÷3)、年5%ならだいたい14年(72÷5)とか、そんな感じ。

複利は利子が元本に加算されてそれが次の利子を生む原資になるから、元利の価値は雪だるま式に増大していく。金利が3%の場合、1年後の元本は1.03倍(1+3%)となり、2年後にはそれの1.03倍(1+3%)^2、3年後にはさらにその1.03倍(1+3%)^3に増える。24年後の元本は約2.03倍(1+3%)^24。たしかに24年で2倍になった。5%の場合でも14年で1.98倍だ。(1+5%)^14=1.98.

なるほど。すばらしい。この法則は一説にはアインシュタインが発見したという(でも、たぶん誤情報)。

金利r(年複利)で運用した場合のn年後の元本は、(1+r)^n倍になる。元本が2倍になる年数を求めるというのは、(1+r)^n=2となる時のnを求めているということだ。

復讐のログ

ここで対数logの復習。

3^2=9

上の数式は「3の2乗は9である」。logを使って表すと、

log[2]8=3

となる。「2を底(テイ)とする8は3である」とか、たしかそんな感じ。同様に、log[2]16=4、log[3]27=3、log[4]16=2など。

さっきの72の法則にもどると、「元本が2倍になる年数を求めるというのは、(1+r)^n=2となる時のnを求めている」。つまり、「 (1+r)を低とする2はnである」。

n=log[1+r]2

だんだん滅入ってきた。しかし、今の時代、エクセルのlog関数を使えば簡単に計算ができる。

72の法則による計算結果とlog関数を使用した正確な計算結果とを比較してみた。表に示した金利6%から10%の範囲はけっこう正確だ。しかし、金利を100%まで上げると1年だけで倍になるのだから、金利が高くなるに従ってだんだん誤差はマイナス方向に開いていくはずだ。

無限に連続

反対に金利を低い方向に動かしても誤差はプラス方向に広がっていく。金利を極限までゼロに近づけていくと、2倍になるのに必要な期間は無限大になる。無限大なのだから、雪ダルマの回転数を年一回に制限するなんてセコイことはやめにして、常にゴロゴロと転がり落ちているとしよう。このように常時連続して複利計算が行われている時に、「72の法則」は、実際には「約69.3の法則」になることが分かっている。

それは、2の自然対数が0.69314718……だからである。Log[e]2、「ネイピア数e」を低とする2は0.69314718……。ああ、滅入ってくる。とにかく、自然対数的には「72の法則」ではなくて「69の法則」なのだ。過去の金利が高かった時代にたまたま72がしっくりきたのではないか。今やゼロとか場合によってマイナスだ。

ちなみに3の自然対数は約1.99なので3倍になる期間は「199の法則」、4は1.39で「139の法則」とかそんな感じになる。

対数が発見されたのは16世紀末頃、ネイピア数は17世紀末頃に発見されたらしい。アインシュタインの時代よりももっとずっと昔。

昔なら、ひたすら計算を繰り返すという職業があったみたいだけど、今の時代は自然対数はエクセルのln関数で簡単に計算できてしまう。倍加時間はさっきのlog関数を使ってもいいし、以下の式でも計算できる。

倍加時間=ln(2)÷ln(1+r)
ただし、r>0

2の自然対数を「1+金利」の自然対数で割った数字。割るだけで算出できるのはとっても便利。

このような対数を使って常時複利が行われているという仮定(連続複利)は金融の理屈ではわりとよく使われる考え方で、なんで使われるのかというと、実態がそうなっているというより、おそらく計算が便利だからではないかと思う。たぶん。
連続複利の収益率が正規分布に従うと仮定すれば、確率論的な計算もけっこう単純化できる。

おまけ1(ベース)

ちなみに日頃親しんでいる10進法の表記、一、十、百、千、万・・・は、10を底とする数字の捉え方のこと。

10^0=1
10^1=10
10^2=100
10^3=1000
10^4=10000

log(10)1=0
log(10)10=1
log(10)100=2
log(10)1000=3
log(10)10000=4

「底」は英語で「base」。底をわざわざ音読みしたりするより、素直に「ベース」と言った方が、滅入り具合が少なくて済むかも。

おまけ2(半減期

2の自然対数(≒0.693)は、化学反応や核反応における半減期(濃度などが半分になる期間)の計算にも使われるのだそう。

半減期=ln(2)÷反応速度定数(または崩壊定数)

さっきの倍加時間の計算式とそっくり。

ちなみにマイナス金利において元本が半減する期間を算出する場合には以下の式で求まる。

元本の半減期=ln(1/2)÷ln(1+r)
ただし、r<0

★シアトリカルな最期

  • A.14℃の冷水に60秒間手を浸した後、温かいタオルを渡す。
  • B.14℃の冷水に60秒間手を浸した上で、さらに追加30秒間。ただしお湯を入れて温度を1℃上げる。

AとB、冷水に曝されてイヤナ思いをする時間の長さは同じ。両方を被験者に体験させたうえで尋ねると、8割がBの方がマシと答えたという。

これは心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンによる「ピークエンドの法則」の実験として知られている。ヒトはピーク時と終わりの時の印象が強く記憶に残るらしい。正直のことろ、ほとんどそれしか記憶に残らないと言ってしまってもあまり差支えない。

そういえば、子供に勉強を教える際、最後に与える課題は多少難易度を落としても「できた!」という印象の残りやすいものにすること、なんて話を子育て中には読んだりしたなあ。あれもそうか。オワリヨケレバスベテヨシ。

CさんとDさん、ともに69年間の人生だった。Cさんははじめの10年間貧しくてたいへんな苦労をしたけれども、残りの59年間幸福だった。一方、Dさんは最初から59年間幸福だったけれども、晩年の10年間は貧しくて苦労した。

人生を通じて体験した幸福や不幸の質や量はCさんDさんともに均しいとして、どっちがマシな人生と感じるか。感じ方はヒトそれぞれでいいんだけど、多数決だとCさんかなあ。

楽しい体験をしたい、と旅行に行く。そこでとても楽しい体験をする。こんなニュアンスの「体験」という言葉は近年よく目にする。しかし、実際に体験できるとしても旅行の直後にその記憶をすべて失ってしまうとしたら、ヒトはすすんで体験しに行くだろうか。

カーネマンによると行かないと答える人が多いらしい。このようなケースでは体験よりも記憶の方を優先するヒトが多いようだ。厳密にはヒトは体験をしに行くのではなく記憶を残しに行くのだという。体験しないで記憶だけ作られるなんて場合はどうなんだろうね。


デビッド・ボウイが亡くなってそんな話を思い出した。突然の訃報に驚きながら数日前に発表されたアルバム★(ブラックスター)をポチった人は多く自分もその一人。オノレの死を意識しながら作ったアルバムということで、よくそこまでするものだなあという感じもするけれど、最後に強い印象を残していった。

デビッド・ボウイは、基本的に70年代の人で80年代初頭のレッツダンスが人気のピークだった。英国ではストーンズに並ぶほどの人気ロック歌手と聞いたことがあるけれども日本ではどうだったのだろう。

正統派ブリティッシュロックでもなく、アメリカンロックでもない。ブルース色は希薄で、筋金入りの硬派ロックンローラーの目には軽薄でチャラいと映るのか、少なくともそっち方面からの評価はそれほど高いとも言えない人だったと思う。

けれども、ミーハーな人気とともに地味で内向的というか文学オタク風の少年少女からカルト的な人気があった人でもあり、他の英国系へそ曲がり歌手とファン層が重なっていたりする、と思う。たとえば、ピーター・ガブリエルケイト・ブッシュ、ブライアン・フェリー、あと、ピーターハミル師匠も一応混ぜて^^;。

亡くなった後の扱いの大きさには、個人的にはちょっと意外な感じもした。やっぱりなんだかんだで大スターなんだろうなあ。スマップほどじゃないけどさ。

今回の芝居がかったやり方はカルト系大スターらしい最期なのかもしれない。でもそんな公的な死とは対照的に、私的な死は保守的なものだったと伝えられている。つまり家族に看取られながら安らかに眠ったという。ちょっとデキスギではないか?まあ、本当かもしれないし、多少脚色があるのかもしれない。本当のことなんてこの際どうでもいいかな。


露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢


なぜに秀吉?

本日のBGM




Youtubeの公式チャンネルで最後に公開されたPV。闘病中の迫真の演技。タイトルの「ラザロ」は聖書に登場する乞食で、死後、苦労が報われて天国でハッピーになった。一方、この乞食を救わなかった金持ちはそうならなかった。オワリヨケレバスベテヨシ。


David Bowie - Lazarus Lyrics | MetroLyrics
http://www.metrolyrics.com/lazarus-lyrics-david-bowie.html

The Perfect Stranger

他人事のような言いぶりで恐縮ですが、自分はおそらく現代音楽に興味がないと思われる。主観を言えば昔から「少しばかりは興味はある」と思っているものの、これまでまともに現代音楽を聴いたことがないという事実を振り返ると積極的に興味があったと言えそうにない。

今も主観的には「少しばかりは興味はある」と思ってはいるものの、たとえば今後一週間以内に具体的な行動を起こそうという予定はない。だから、自分を他人のように外側から眺めてみた「ありのまま」の姿は、興味があるようには見えないというのが妥当な線だと思う。

内面の主観と外見とどっちが「ありのまま」なのかは一概には言いづらい。主観を軽視すると本末転倒になりかねないかもしれない。ただ、主観が感じ取れるのは意識にのぼってくる範囲内で、その背後にはアクセスできない。「少しばかりは興味はある」という主観は表層的な思い込みに過ぎないのかもしれない。

興味がないと思ってやっていないことと、興味があると思っているのにやっていないこととは、主観上は異なっているように思えるのだけれども、行動自体はさして変わりはない。その一方で、苦手で嫌いだったはずのランニングを今の自分がやっているというのは、我ながら不思議で面白いものだなあと思う。

それこそ思い込みを原動力にその気になっているものの、自分らしくないことをやっている自覚はあり、他人を演じているような気分になることもある。出来具合は「ありのまま」というか「それなり」ではあるけれど、それにしても「主観的な自分らしさ」からもっと遠く外れたことだって案外できるようになるかもしれない。

なんてね。

テニスやゴルフはさすがに遠すぎるけれど、現代音楽なら比較的近場な感じがする。主観的には^^; まあ、個人的な趣味の話だから自由でお気楽なものだ。


さて、ピエール・ブーレーズという現代音楽の偉い作曲家が亡くなったというニュースを見た。どっかで聞いたことがある名前だなと思ったら、フランク・ザッパの曲の指揮をやったことのある人だった。



上の曲は、1984年発表のアルバム、’Boulez Conducts Zappa: The Perfect Stranger’の1曲目に収録されたタイトル曲。

Perfect Stranger(赤の他人、見知らぬよそ者)というのは、現代音楽界におけるザッパ、ロック界におけるブーレーズを指しているという説明があるようだ。わりとザッパらしい曲と思う。

Boulez Conducts Zappa: Perfect Stranger

Boulez Conducts Zappa: Perfect Stranger


おまけ

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

今回は以前に読んだこの本のことを思い浮かべて書いてみた。一年以上前に読んだものだから記憶はざっくりであいまいだ。タイトルは自己啓発本みたいだけどアメリカの心理学者が書いたわりと固めの内容で翻訳もプロ翻訳家でなく日本の心理学者によるもの。

原題は’Strangers to Ourselves’。 なんて訳したらいいのかな。直訳的には「私たち自身にとって見知らぬ人」とかそんな感じ?副題は'Discovering the Adaptive Unconscious.'「適応的無意識の発見」。