Les Rêveries du promeneur solitaire

保守か?革新か?

残念ながら(?)政治的な意味ではありません。科学にまつわるよしなしごと。

科学に対して、新たな可能性を描いて新たに挑戦するという革新的なイメージを持っている人がひょっとしたら多いのではないかと思っている。メディアで報道されている科学の話題は新しい研究に関するものが多いからだ。たしかにそういった側面はあるのだろう。

しかし、目新しい主張に対して批判的な吟味をせずに受け入れれば、根拠のない主張が世の中にあふれてしまう。だから新しいものをそうやすやすとは受け入れず、疑ってかかるという保守的な側面があるのも科学だ。科学的な姿勢とは合理的に疑う姿勢でもある。近代合理主義の開幕を告げた、ある人の決めゼリフ:「私は考える。だから私は存在する」。

そういった合理的な懐疑の淘汰圧の中で、ある主張はひとつひとつ証拠を積み重ねて自身の合理性を高めたり、その主張に対する合理的な懐いをより強く排除できるようになっていく。別の多くの主張はそうなれずに淘汰されてしまう。したがって、より長く生き残っているものが、より確からしさの強い主張だと言える。

「確からしさ」という表現はもったいぶった表現に見えるかもしれない。つまることろ「蓋然性」のこと。18世紀のある懐疑論者が因果関係の「必然性」を否定したことから始まる。この人は無神論者でだった。宗教右派懐疑論者の戦いは今もまだ続いている。

20世紀のある人によれば、科学的主張とはまだ反証されていない主張のことだという。そして反証できるものが科学であって、反証できないものは科学ではないとした。疑似科学はどうとでも言い訳ができるようになっているという。


さて、科学に限らず、ヒトはもともと革新的な側面と保守的な側面とを併せ持っている。合理的であるかどうかは別として。たとえばヒトの数百万年の歴史に比べれば農業は非常に革新的な食料生産技術だ。人々が初めて農作物を収穫した時、その中に「そんな人工的なものは怪しくて食べられない。天然の樹の実がいい」と言った人がもしいたとしても不思議じゃないと思う。