Les Rêveries du promeneur solitaire

デカダン・ロックの末路

ケビン・エアーズが"Decadence"「退廃」という曲(1973年)は、ニコに捧げられた(いわゆる「トリビュート」した)曲だとされている。

歌詞はようわからんけど、曲は面白い。シンセのドローン、反復する短いリフ、スティーブ・ヒレッジ(ノンクレジット)のエコーがかりのギターの電気音。メディテーション。ヒレッジの後々の仕事につながっているように思う。この後、ヒレッジはエアーズの旧友のデビッド・アレンのバンドに加わって、そこで成功する。そして30年たって還暦過ぎて、時代も音楽も変われども、いまだ瞑想中(迷走中?トリップ中?)のヒレッジ師匠。

エアーズはこのアルバムを最後に事務所を移籍。1974年に発表した次のアルバムには、ニコとのデュエット曲がある。

変拍子のミニマルフレーズを繰り返すアコギ(ロバート・フリップ風)。重苦しいメロディにエフェクト処理されたニコの低い声。死神恐い。

ちなみにこちらもニコとのデュエットではないかという意見をネット上で見かけた。「カキとトビウオ

ウララ~ウララ~。声は低く、声の出し方も少し似ていると思うけれど、こちらのアルトは安定していてやわらかで母性的な感じがする。人違いである。エアーズ師匠のバリトンはお父さんという感じはしない。ステレオタイピーなお父さん声というのは、たとえば磯野波平さんのように、もっとパワフルだ。

1988年、ニコはかつてのヒッピーのメッカ、イビサ島で亡くなった。自分は新聞で知った。昨年のルー・リードも新聞だった。ふつう、新聞には載らない人たちだ。ちょっと大げさだけどシュールな感じもする。

自転車から転倒して頭を強打したらしい。ヘロイン依存の治療で自転車療法をやっていたとも言われている。ロッキンオンかなにかで「生きようと再スタートした矢先の・・・」というようなわりと穏当な記事を読んだような気がするけれども、海外の音楽雑誌では悲惨な死の様子が報じられたようだ。

事実はどうあれ、悲惨な死はニコの放つイメージと一貫性が感じられ、理解しやすい、ライターは記事を書きやすい、読者は読みやすい。朽ち果てる退廃美。ホロボロになって酔っぱらってヤケクソになるほど、ファンから拍手喝さいが贈られる。デカダン・スター・システム。ヘロインよりも恐ろしいかもしれない。でも、50歳という年齢は、不朽のロックスターとして描かれるには、ファンの暗黙の期待に比べれば、むしろ長生きしすぎたか。

エアーズもイビサ島やその隣のマヨルカ島に長く住んでいた。4年後の1992年には、長年連れ添ったギタリストのオリー・ハルソールも亡くなった。またしてもヘロイン。因果応報、そんな文字が思い浮かぶ。世間の期待通りの結末を迎えた。予言を自己成就させるように、自ら選んでしまったのだろうか。

ハルソールが亡くなって以降、エアーズのアルバムの発表は途切れた。数年後にはフランスの南部に移り住んだ。健康状態は良好とは言えなかったようだ。やがて世紀末が終わり、ミレニアムを迎えた。2007年、15年ぶりにアルバムを出したものの、今になってみれば、それが遺作になった。

亡くなったのは昨年2月。アングラすぎて新聞には載らなかった。枕元に「燃えないと、輝くことはできない」というメモ書きが残されていたとされる。事実はどうあれ、往年の師匠らしからぬキツメの言葉。追い込んでいたのか、追い詰められていたのか。死因はわからない。キリギリスは冬になって飢えた。エアーズにとって自ら望んだ自分らしい終わり方だったのか、それとも世間の期待するエアーズらしい終わり方だったのか。人生を一貫した物語に仕上げたいという呪縛が主客を転倒させるようなことはなかったのか。自由とか言いながら期待通りの運命をなぞるような生き方をしたのではないか。もっとうまい生き長らえ方があったのではないか。

なんつって、デカダンスをキーワードに勝手気ままに妄想を膨らませてはみたものの、実態は、ようわからんです。

地中海に浮かぶイビサ島は今でも欧州の若者に人気のリゾート地らしい。けれども、現在のイビサ島は昔のような不健全でいかがわしい場所ではなくなっているという。

ウララーウララー 夏が来るぜ。