Les Rêveries du promeneur solitaire

Talk To The Wind ~風に語りて~

  • 現在の被災地の悩みは「風化」と「風評」なのだと聞いた。風評に関していえば、少し前に、かつて一世を風靡したグルメ漫画が話題を提供した。なんというか、この漫画はもともと、食品添加物、うまみ調味料、農薬などに対する考え方にやや偏りがあって、専門家にとってはツッコミネタの宝庫だった。
  • 典型的なストーリー展開は、最初にダメな料理や食材(たいてい新規のものや人工をイメージし易いもの)を提示して、これを徹底的に排除し、作者(主人公)なりの最高の食材と調理法(たいてい伝統や自然をイメージし易いもの)を相当に理屈っぽい形で徹底的に純化させるというもので、僕の考えた最強のロボットとか、僕の考えた究極のメニューとか、なんというか男のロマンなのだ。女のロマンに関しては・・・すいません、わかりません、ごめんなさい。ごめんなさい。
  • 伝統とか自然とかは純化なんてものとは相いれない部分も多いのだろうし、一つの理屈を究極的に煮詰めれば、偏りやすくてバランスを崩しやすくなったりする。一方で、その閉じた世界の中では、ストーリーの一貫性を保ちやすかったり、分かり易かったりするから、ある程度説得力を持ったりする、んじゃなかろうか。ヒトは客観的なデータよりも個人的なエピソードとか体験談といった物語に強く説得されるようにできている。なんといっても男のロマンだし。
  • 食欲とか味覚とか食品の購買・消費行動は、とかくイメージに影響されやすい。だから、商売上、それを受容するというか、迎合するというか、利用するというか、マーケティングというか、供給サイドの業者の行動にも影響を与え、付加価値という名の社会的コストがアップすることにつながるかもしれない。頭痛が痛い。
  • その時の気分によって同じ食べ物でも味は変わる。値段を提示することでワインの味は簡単に変えられる。こういったことは分かり易い例。もっと面白いのは、次のようなケース。
  • ランダムにカードをめくる。そのカードには単語が書いてある。カードを一枚一枚めくっていくと、「バナナ」の後にたまたま「ゲロ」の文字が出た。ランダムにめくっていると分かっているのに、一瞬バナナを食べたくなくなったりする。直感が勝手にバナナとゲロの因果関係ストーリーを自動生成(「ねつ造」とも言うのかな)するためとされる。ちょっとだけ注意すれば、湧いてきた感情が合理的ではないことにすぐ気付く。
  • 「青酸カリ」と書いてある容器に何か食べ物が入っているのを見つけたとして、それを食べないようにするのは無難な行動だと言える。ところが、自分自身が安全な食べ物を容器に入れ、そこに自分で「青酸カリ」と書き込む。つまり最初からデタラメだと理解している。そんな場合にも同じ様な効果があるという。理屈では説明が難しい。とにかく食べる気がそがれる。でも最初抵抗感があっても気にしないように食べ続ければ、そのうち気にならなくなるかもしれない。要は慣れで頭で考えるより行動あるのみといったところか。
  • 「食品の安全を脅かした騒動」として近年たびたび話題になる、つい最近はあるファストフードで盛り上がっている。けれども「毒ギョーザ事件」などの一部の例外を除いて、多くは死人どころか食中毒事件にも至っていない事例であり、冷静に詳細を見ていくと実態はそれほどセンセーショナルなものを感じられなかったりする。メディアの責任と棚上げするのもいいけれど、ヒトの行動に注目してみるのもいろいろと参考になったりする。たとえば自分が主婦で、家族のために料理を担当で、家族の健康管理に強い責任感を感じている(強いストレスに曝されている)と想像してみると、注目する情報の種類や判断や行動は自分の今のポジションとは違ってくるだろうと思う。
  • ヒトの長い歴史、もしくはヒトになる前からの長い歴史の大部分は、現代の日本とは違い、食べ物を探しまくっていた歴史であり、たいていは腹が減っていた。そんな飢えのサバイバルゲームの歴史の中でも、何が食えて何が食えないのかの判断は重要だったと思う。ある程度、保守的なバイアスを持っていた方が生き残り易かったかもしれない。保守的すぎても飢え死にしてただろうけれども。
  • 一方で、過去、食中毒事件を引き起こし、役所が業者を指導をしていたにもかかわらず、目立った効果も得られずついに死人までだして、それでも業界に自浄能力を示せないので禁止になってしまった食べ物がある。今度はよりによってブタだってんで、そっちも禁止せざるを得なくなったというなんともアナーキーな食べ物。ヒトは好きなもののリスクを小さく、嫌いなもののリスクを大きく感じてしまうという特徴があり、感情ヒューリスティックスなんて用語がある。ハイリスク・ハイリターンなんて概念は、頭で理解することは可能だとしても心から感じることは難しい。禁止されればよけい食べたくなるというのも人情で、ありがちというか、正常な心理だと思う。禁断の果実というエロい(?)箔までついたからには闇に潜るのだろう。
  • 小さいリスクの取り扱いは難しい。大きなリスクであれば、分かり易いし行動の選択余地は自ずと限られる。ところが小さいリスクは具体的な対処方法はイメージしづらい。つまり認知的コストが大きく、ヒトは基本的にこのコストを負担するのが大嫌いだ。もちろん自分も。なので問題を単純なものにすり替えて、解決したフリをしたりする。無意識のうちに自動的に。その結果、リスクを過大評価するか、逆に完全に無視するというのが通常の選択になる。「ゼロリスク信仰」は通常、前者を揶揄するような意味合いで使われる場合が多いのだけれど、後者もリスクをゼロと見積もっている点で同類なのだ、といったことが環境リスク論の中西準子氏のサイトに書いてあって、なるほどなと思った。いずれにせよ小さいリスクの取り扱いは難易度が高い。
  • 「本当の究極のメニュー」の料理を食べて至福の時を味わう。Y岡さんから一週間後にまた来てくださいと言われて、また同じ「本当の究極のメニュー」を食べる。本当の究極ということは、もう変わりようのない永遠のものだ。とろこが、今度は一週間前と同じ感動が湧いてこない。同じ本当の究極なのに。心にはスタビライズ機能が備わっていて、同じものではもう驚かないようにできている。どん底の気分も長続きしない代わりに至福の時間も長続きしない。感動して興奮して鼓動が早まって血圧が上昇、血管が拡張して頬がクリムゾン色に染まる。そんな時間が続いたら、体に負担がかかって死んでしまう。そんなことが最近読んだ本に書いてあった。本当かどうかは知らないけれど、驚いてショックばかり起こしていたら死んでしまう。

本日のBGM

本日の戯言はすべてこの曲をかけるために捧げられた。