Les Rêveries du promeneur solitaire

坂の上のクラウド(その3)

最終回の今回はライヒについて少し掘り下げてみたい。といっても、長いのはつらいので短くまとめる(でもちょっと長い)。多少なりともエグい言葉が出てくるので苦手な人はご注意ください。これでもあまりに、という表現はそれなりに削ったつもり。

ウィーンでフロイトの弟子としてデビューしたヴィルヘルム・ライヒは、当初はメインストリームの精神分析家で、初期のフロイトの著作にも少なからず彼の文章が引用されているらしい。オーストリア社会党に入党していた。雲行きがあやしくなり始めたのは、1930年にベルリンに移ってドイツ共産党員となり、セックス・ポル(性政治学研究所)を創立したあたりから。

フロイト主義とマルクス主義を結び付けて、「プロレタリアートの性的欲求不満が政治意識の委縮を引き起こす」とし、「性の解放で革命的潜在能力を発揮できる」と唱えた。当時としては今思えるほどアホらしい主張ではなかったようではあるけれども、あえなく(やはり?)失敗し、「非マルクス的ゴミくず」との不名誉な評価を受けて党から除名処分となってしまう。フロイトの周囲とも不和になり、ほどなく国際精神分析連合からも追放。

1933年にはファシズムを「性を抑圧されたノイローゼ患者のサディスティックな表現」と攻撃したので、ユダヤ人だったこともあって、ナチスから逃れて北欧に亡命。デンマークスウェーデンを転々とし、ノルウェーにたどり着いて、オスロ大学でオルゴンという未知なるエネルギーを発見した。1939年のことだ。ところが、ノルウェーでも猛烈な批判の渦が巻き起こったので、アメリカに渡った。メイン州にオルゴノン研究所を設立、そこでオルゴンの研究に励みつつ著作を発表した。

オルゴンというのは、オルガスム(性的絶頂)を語源とした造語で、フロイトのいうところのリビドー(性的欲求のエネルギー)の生物学的、物理学的な裏付けとなるものだそうだ。自然界(当然、宇宙空間も含まれる)のすべてに浸透している非電磁的なパワーであり、生体から星の動きまで司っているスーパー・ミラクルな存在(!)。

色は青である。空が青いのも海が青いのもオルゴンの色。真空管の青い輝きもオルゴン。青色LEDもきっとそのはず(?)。雷は静電気なんかじゃなく、オルゴン・エネルギーである。オーロラもかげろうも雨雲もその生成過程においてオルゴン・エネルギーが関連している。

だから大気中のオルゴン・エネルギーを操ることで雨雲を創出し、雨を降らせることもできるし、雲を蹴散らすこともできる、ということで、クラウドバスターというマシンを制作して、干ばつの折、農民のために雨を降らせた(!)という。空飛ぶ円盤UFOを目撃し、しかもその飛行にオルゴン・エネルギーを利用していることを悟ったので、侵略者から地球を防衛するため、クラウドバスターで撃墜すべし(!)と訴えた。1941年には天才アルベルト・アインシュタインにオルゴンを見せた。特に反応はかえってこなかった^^

生体の単体は細胞ではなく、もっと小さなバイオンという小胞である。なんとこの小胞は集まると原生生物にもなってしまう(!)。バイオンはオルゴン・エネルギーによって「愛の基本的けいれんリズム」にしたがって脈動していて、力学的緊張、生物電気的充電、生物電気的放電、力学的弛緩という4拍子の「オルガスム公式」に従ってこの脈動している。正常な人間の生殖行動もこの4拍子の「オルガスム公式」に従っているのは当たり前だ。でも、リビドーが抑圧されたノイローゼのやつらはアブノーマルなのでこの4拍子に従っていない。

ガン細胞は分解しつつある組織から生じたバイオンが成長した原生生物で、尾を生やしていて魚のように動く。ガン患者はそのまま放っておくと、死亡しない限りこの原生生物に変わってしまう(!)。初期のガンにはオルゴン・エネルギーによる治療が有効である。オルゴンは痛み和らげ、傷の治癒を早めるし消毒もする。オルゴン治療の最終目的は患者に十分で完全なオルガスムを持つことであり、すなわち「オルガスム公式」の4拍子に従わせることである。

星は宇宙空間に満ちたオルゴンの収束的なエネルギーによって動いている。専門家の言う引力なんてものはデタラメだ。生体ではないのでさすがに「オルガスム公式」の「愛のけいれん」は見られないものの、男女の性的抱擁への衝動に似た「重なり合い」によって宇宙は星を生み出す。

1945年には日本に原爆が落とされた。原爆の放射能は、「悪」と「憎しみ」の悪魔的存在なので、「善」であり「愛」であり「神」であるオルゴンでの治療が有効である。

オルゴン治療には、「オルゴン・ボックス」というオルゴンを集めて体に照射するための電話ボックスの背を短くしたような箱に患者を入れる。オルゴン・ボックスは購入することも可能なのだが、医療使用の権利はライヒの財団が保有しており、通常は患者に月極めでリースされる。オルゴン・ボックスのほかにも「オルゴン・エネルギー毛布」や体に部分的にあてる目的の「シューター」も開発した。

本人は大真面目のようだが、ご想像のとおり、専門家の大部分は無視し、残りの一部からは批判を受けた。ライヒは憤慨し、自分を宗教的権威から弾圧を受けたガリレオやコペルニクスに例えて強い調子で反論、というか専門家を罵倒した。

「怒り」のパワーでノーベル賞を取った、とか、フリーザをやっつけたという人もいるけれども、「怒り」は他のネガティブな感情と違い、たとえば「抑うつ」とは正反対に、気分が高揚し、行動は積極的で攻撃的になる。ポジティブな感情である自己肯定感や自信過剰も、あまりに強すぎると独善的になり、他人がアホに見えてなんだかイライラするし、まともに対話をするのも鬱陶しくなる。

自分が他人よりも賢いと感じすぎて、他人が自分よりもアホだと感じすぎる。自分がきちんと評価されていない、本当はもっと評価されるべきだと感じ、そうならないのは他人がアホすぎて評価能力がないせいか、なにか背後に強大な悪のパワーが働いて妨害しているせいなどと感じてしまう。ただ、そんな境地にまでたどり着くのは、さすがにごく少数派だろう。リビドーだかナニだか知らないが、確かに抑圧されているのかもしれない。

ライヒも年を経るほど自分は偉大だという信念が強まっていく。プロに対するリスペクトはなかった。自分をガリレオやコペルニクスに例えるのは、この手の境地に至るケースでは典型的なパターンといえ、わかりやすい危険信号となる。少なくともライヒの目には、その道のプロフェッショナルたちが中世のドクサにとらわれた宗教的権威と同じように映った。でも、ガリレオやコペルニクスになるのなら、自説に対ついてプロを納得させるだけの検証を行って証拠を示す必要があった。納得できる証拠をきちんと示さずに、自分の理屈を信じろという方がむしろ宗教チックなのだ。

けれども、それなりに信じる人は集まった。アナーキストなどにもウケが良かったらしい。そういう魅力があったのだろう。著書が売れ、ワラをもつかみたい患者が集まってくる。
ライヒ本人は患者に対して詐欺をやっている意識はなかったと思われる。プライドが異常に高い分、正義感も強かったのではないか。そうしているうちに被害は拡大していく。

とうとうアメリカ政府も放置できなくなり、FDA(米国食品医薬品局)が医療上有害無益として連邦裁判所に告訴。出版物は発禁処分となり、オルゴン・ボックスの販売・リース・輸送も禁止された。でも、ライヒはこの処分に従わなかったので、法廷侮辱罪で逮捕された。そして投獄され、最期は獄中で亡くなった。1957年。憤死したとも言われる。60歳だった。数年前、妻が浮気してるんじゃないかという強い疑念に駆られて一方的に離婚していたので、身内は一人息子のピーターだけだった。

オルゴン・エネルギーにほとんどふれていない著書まで「焚書」になり、理論の当否とは別に出版・言論の自由に関する問題として取り沙汰された、という話も残っている。

カウンターカルチャーの時代にはヒッピーの間でライヒを再評価する声が上がったのだそうだ。ウィリアム・バロウズがハマったらしい。破天荒で政治や科学の体制に反抗したこと、「焚書」「獄中死」というワクワクするフレーズ、当時のフリーセックス・ムーブメント(性の解放運動)とも相性が良かったのだろうか。

1973年に息子のピーターは、父親について書いた本を出版した。ケイト・ブッシュはそれを読んで曲にした。パティ・スミスのBirdlandという曲も同じ本がネタ元らしい。たしかに文芸好きの若者の秘孔を突く力を持っているとは思う。反体制でセクシーで際立ってユニークな人柄と波乱万丈の人生で、科学の世界ではからっきしでも、崇拝の対象としてならそれなりにいける。

今でもオルゴンでググるとけっこうヒットする。オマジナイとしての効果はあるだろう。自分はオマジナイをオマジナイの範疇で使うことは否定しない、というか、ツールとしてのオマジナイをわりと大事にしている。ただ、個人の自由と責任において対応するのが原則だろう。



奇妙な論理〈1〉―だまされやすさの研究 (ハヤカワ文庫NF)

奇妙な論理〈1〉―だまされやすさの研究 (ハヤカワ文庫NF)

ライヒの話はこの本に詳しい。1952年にこの本が最初に書かれた当時はまだライヒは存命だった。科学ライターのマーティン・ガードナーが主に当時のアメリカの疑似科学を集大成したもので、古典的名著なんて言われてる。原題は”In the Name of Science”(科学の名において)。読むとこの手の界隈も昔から似たようなことの繰り返しなのだなあと感じる。オルゴン理論についてまるまる1章が割かれている。けれども、クラウドバスターについての記述はない。クライドバスターはこの本の出版前後あたりに出てきたようだ*1