Les Rêveries du promeneur solitaire

どこかにあるのかディストピア

オレはオレだ。


トートロジー(同義反復)は論理的には無意味とされている。「オレはオレだ」はとてもシンプルな同義反復。「A=A」と述べているだけで論理的にはなにも説明していない。しかしながら、文学的というか、口語的というか、実際には前後の文脈次第で多様な意味を持つ。

なんだか当たり前すぎてウンザリしますね。

ところで「ユートピア」という言葉は英国のトマス・モアという人が16世紀に描いた理想郷のことだ。「どこにもない良い場所」という意味の言葉をモジった造語なのだそうだ。

だから、ゴダイゴのガンダーラ、「どこかにあるユートピア」という歌詞には、論理的には矛盾が内在している。シンプルに間違っている。

けれども、ポエム的にはむしろそこがポイントで、「どこにもないはずの素晴らしい場所がどこかに実在する」という含みを持たせることになる。

そして、その含みによってその後に続く「どうしたら行けるのだろう、教えてほしい」という言葉に、より一層の強い期待や切実な願いを込めることを可能なさしめているのだ-

こんなふうにイチイチ解説するのはヤボというものだし、余計なお世話である。ポエムなんてそれぞれ自由に読めばいい。

その「ユートピア」という書物には共産主義的な理想郷が描かれている。ところが20世紀になり、ファシズムやらソ連やら全体主義的な管理社会が実現した結果、ユートピアのネガティブな側面が「ディストピア」としてSF小説などを通じて描かれるようになった。

たとえば日本の漫画だと「地球(テラ)へ」なんか典型か。コンピュータに厳格に統制される社会。

さて、今年からマイナンバーである。取りあえずは税金と社会保障から。今後どの程度用途が拡大するのかはわからない。行政コストの削減や税金の取漏れにどの程度寄与するのだろうか。

もともと人にはひとりひとり記号が付いている。氏名だ。しかしながら改めて一人一人に番号を付ける必要があるのは、氏名が記号としての役割を十分に果たせていないからだ。

明治政府が平民にも姓を与えて組み立てた家長を中心とする家族制度は名も実も失って十分に機能しなくなった。その他の条件もずいぶん変わったし。

マイナンバーは氏名の補完なのか、それとも代替なのか。代替ならばマイナンバーができたんだから、極端な話、もう名前なんていらなくね?なんて。

たしかに番号よりは覚えやすいし実用的だけど、それなら実用に応じてみんな好きなように名乗ればいいじゃない。ポエムの解釈が自由なように。

名前を呼ばれて、うっかり返事をするとヒョータンのなかに封じ込められて、とろけてしまう。西遊記の金角、銀角のところで出てくる紅瓢箪のお話。

このツールは実名に対して反応した場合にのみ有効で、偽名(「空悟孫」など)に返事をしても何も起こらない。これは実名が実体と強くリンクしているという考えがベースにある*1

しかし、マイナンバーが何番だろうと「オレはオレ」であるように、どんな名前で呼ばれようと(または名乗ろうと)「オレはオレ」ではないか。

名は体を表すという言葉があるけれど本当だろうか。名ばかりのものではないのだろうか。氏名は「アイデンティティ」か、それとも「ID」なのか。

ということで、マイナンバーが選択的夫婦別性を許容するかどうかという問題につながるのか、つながらないのか、わかりませんが。

極端な話をしているのは承知しています。自分もサヨクにせよウヨクにせよ極端なのは凡人並にニガテだ。

ジョン・レノンは「想像してみなよ、簡単だろ」って言うから想像してはみるものの、言うは易し行うは難し。横山やすし西川きよし

自分が名前を変えたいと思っているわけでもない。でも自分の考えを他人に強制しようともあんまり思わない。他人からあんまり強制されたくもないからね。オレはオレだからさ。北斗の拳の無秩序な世界も怖いけれどディストピアも息苦しい。

孤立したいわけでもなくて、楽しくやれたらいいなあ。その程度のサル並のことしか考えてない。お正月だもの。



*1:ホンモノの紅瓢箪は偽名に対しても有効である。