Eureka!/Positive Reaction!

Les Rêveries du promeneur solitaire

相模原障害者施設殺傷事件

前代未聞とされた事件から2年経過し、ようやくその気になって2冊選んで読んでみた。といっても読み終わってからしばらく経ってしまった。もうじき2年半が経つ。
なかなか考えはまとまらないのだけれど年末なのでこの投稿を一応のけじめとしたい。

開けられたパンドラの箱

開けられたパンドラの箱

妄信 相模原障害者殺傷事件

妄信 相模原障害者殺傷事件

一冊目は、月刊誌「創」編集部によるもの。植松被告への直接取材や本人の手記が中心となっている。

二冊目は、朝日新聞の取材班によるもの。事件の輪郭はこちらの方がわかりやすい。読む順番は二冊目から読んだ方がよかったかもしれない。

個人か社会か

何か衝撃的な事件があったとき、その原因について主に個人的なものに帰属させる考えと主に社会的なものに帰属させる考えがある。

「個人」に焦点を当てると、彼は事件の半年前、2016年1月頃から様子が変わったらしい。それ以前からヤンチャなところはあったにせよ、ヘイトクライムにつながるような極端な差別思想を周囲に打ち明けるようになったのはこの頃からなのだそうだ。

差別思想といっても本人は大まじめで、日本のため、世界平和のために障害者の抹殺を真剣に考えていた。計画を周囲に打ち明け、助力を求めたりもしていた。当然、周囲は反対したが考えを変えなかった。犯行後も変えていない。おそらく今もそうだ。

熱い正義感、強固な信念、計画性と実行力。尋常ではない。異様さを感じてしまう。

「社会」という意味では、そもそもなぜ重度の障害者が人里離れた収容施設で生活しているのか、あまり知られていない障害者の生活実態、施設職員の厳しい職務環境や低い待遇、近年の主にネット上の差別的な論調など、容易に思いつくものを挙げるだけでもいくつも出てくる。

こういった社会的な背景が今回の犯罪の発生確率を高めたのだろうか。その可能性は否定できないけれども、容易に思い付くからといって単純に結びつけてしまうのは短絡的すぎるのかもしれない。いずれにせよ、この事件が滅多に起こらない特異的な犯罪であることは間違いない。

なお、事件のあと、ネット上には植松被告に対する賛同や称賛の意見が多数あったのだそうで、そういった意見を見てなおさらショックを受けたという関係者がいるとのことだ。また、植松被告自身もヤフーニュースのコメント欄にしばしば投稿していたとのことであり、ネットの影響は多少あったのかもしれない。一般論的に見てもおそらく個人的なものと社会的なものは相互に影響しあっていると思われる。

匿名の是非

今回読んだ二冊の本、いずれも警察側が被害者と匿名としたことに対して大きな問題意識を持っている。

「匿名は障害者差別。障害者個人が実際に生きてきたことまで消してしまう」というのが、彼らの主張には一理あるようには思うものの、どうしても「メディアの論理」だなあと感じてしまう。植松被告と同じとは言わないが、これも理屈っぽい、一方向の思い込みのような感じがしてしまう。

誰かに知られなければ生きたことにならないのかというと、そんなことはないだろうと。

植松被告は、意思疎通のできない人々を「心失者」と呼び、人間ではない、生きる価値がないとした。そんなことはないだろうと。

植松被告の主張に対し、RKB毎日放送の人が自閉症の我が子の本名や写真を出した上で親の熱い想いを語った。これを二冊とも称賛しているが、私にはそれが良い行いとは思えない。それがどんなに美談でも。
本人の意思は?

すれ違う各々の主張とまったく主張の見えない当事者

他にも措置入院の在り方などの論点があるけれど省略。終わりに自分が最も印象に残ったことを書いておきたい。

この二冊の本を読んで感じたのは、それぞれの強固な信念だった。植松被告、「創」の編集者、新聞記者、事件にまつわるそれぞれの熱い思いがたくさん書かれている。そのほかにも登場人物それぞれの思いが語られている。やまゆり園の建替えを望んでいる人、逆に脱施設を唱えている人、持論と結び付けようと躍起になっている人、むつかしいイデオロギーを持ち出す人・・・各々が自分の立場で言いたいことを述べている。

数多くひしめく想いの中で、改めて感じたのは、「意思疎通ができない」とされている人々の主張がないことだった。
意思疎通ができない人が何を感じているのか見えない。
代弁者を自称する人たちならいるけれど・・・
このことはある意味当然の帰結で、誰が悪いというのでもなく、
どうしようもないように思えるだけに絶望的に感じてしまった。

おっちゃんたちの宮殿の中で ~ In The Court of Old Men

遠い若かりし頃、渋谷にはわりと頻繁に通っていたのだが、ずいぶん前に社会人になってからは行かなくなった。当地で大勢の若者たちが集まって暴れているニュースを何も考えずただボーっと眺めていたものの、実際にハチ公前に行ってみたら若人共がまるでゴミのように溢れていて驚いた(byムスカ)。少子高齢化ってデマなんじゃないの?

今回の目的地(仮に「宮殿」と呼ぼう)は、ハチ公前からそれほど遠くないところにある。一時期、けったいな映画(?)を観によく行っていた。けど、あいまいな記憶で慣れない大都会の人混みを縫うように歩いていたら道を間違えてしまった。かっこ悪いなと思いながらも仕方なくスマホを取り出し、ナビに頼って進んでいくと、ラブホ街の狭くて薄暗い道を通り抜ける羽目に。おかげで人混みからは退避できたけれど、なんだか少し緊張した^^;

ようやく宮殿にたどり着くと、そこには少子高齢化社会が待っていた。これが現実か。宮殿の中にはお疲れ気味のおっちゃんたちがまるでゴミのようだ・・・。自分もその一部にまじっている。ハチ公前よりもよく混ざるしよく溶ける・・・けどオレ、まだ若いほうじゃね?

だって50周年なんだもの。私のファン歴はたかだか35年余り。若僧である。

実はキング・クリムゾンのライブはこの日が初めて。そもそも私はあまりライブに行かない。ロックはライブで演奏者と聴衆が一体になって盛り上がるというのが醍醐味みたいに言われるけれども、私は基本的にレコーディングされた音楽を再生して聴くのが趣味なのだ。

なぜだろうか。

世代的にプログレ全盛期をリアルタイムで体験していないからではないか。自分が一番夢中になっていた時期、プログレを演奏しに海外のバンドが日本に来るということはほとんどなかった。まわりにこの偏った趣味を共有できる人もほとんどいなかったから、ひとりぼっちで自分の部屋に閉じこもって楽しむのが基本スタイルだった。

暗い青春である。もしそれが青春と呼べるのなら・・・

プログレ演奏家はテレビには出てこないし、ロック系の音楽雑誌にすらあまり取り上げられない。当然YouTubeなんてない。だから映像にはそれなりに飢えていて西新宿の如何わしい店で海賊版のビデオを買ったりもした。海外で販売されている(過去に販売されていた?)正規版を無法にダビングした粗悪品で音質も画像もそれはもう酷いものだった。けれど、それ以上のものは望めなかったし、それなりに興奮して歪んだ映像に目を凝らした。

今日この宮殿の中に自分と似たようなおっちゃんたちが大勢集まっている。自分だけの趣味だったはずが、今の私はゴミのような集団に混じっているほんの小さな一粒にすぎない。なんだか変な感じである。

今更、クリムゾンのライブに行くこともないだろうとも思っていた。2013年に今のバンドが活動を始めた時、いつも厳しかった御大の表情は柔和になっていた。しかも昔の曲をやるという。このバンドには常に新しい音楽を探求しつづける「義務」が課されており、懐メロはご法度のはずだった。といっても私は新しい曲に興味はないのだが・・・とにかく「ああ、クリムゾンよ、ついにお前もか」と思うと、とても身勝手だけど複雑な気分がした。

ところが、2015年の来日公演は予想以上に評判が良かった。昔の曲といってもアレンジを変えている。そしてトリプルドラム。このバンドはレコーディングをやらない。ライブしかやらない。これは行った方がいいのかもと思った。50周年。個人的にも50歳でキリが良かった。

当日、宮殿の中で演奏された音楽は素晴らしかいものだったと思う。とはいえ、さっき書いたように私はあまりライブに行かないので比較対照はない。とにかく行ってよかったと個人的に思った。他の人にとってどうかは、悪いけどよくわからない。

即興演奏が多かった70年代と比べると全体的に統制された感じの強い大人の演奏だった。サッカー(最近見てない)でいうとブラジルよりもスペインというか、個人プレーもあるけれど、きちんと組織立っている印象。

最前列のトリプルドラムは、ここぞという時以外は単純にユニゾンで叩いたりしない。バラバラに演奏していて異なるリズムを刻んでいることもある。かといってメチャクチャにやっているわけでもなく個々に細かい決まり事や役割があるようだった。3人で微妙にタイミングをずらせる時間差攻撃のような連携プレーの場面もあり、クリムゾンらしい緊張感が張り詰めている。3人で相当練習を積んだのだろう。

前線ですさまじい音圧を発しているドラムの背後から、艶のある叙情的な音がオーバーラップする。

ジャズの雰囲気を醸しているサックス。メル・コリンズは衰えてなかった。ボーカルは往年のキング・クリムゾンらしい甘い声。ベースは裏方の支えに徹している。

ノスタルジックな音を発するメロトロンはバンドのサウンドの要。生演奏のメロトロンってこんなに壮大な音がするんだなと感心した。大河の流れのような・・・。「機械の音だからって生演奏をナメたらあかんぜよ」といった感じ。ナメてました。すいません。すいません。

御大も相変わらず艶っぽい音を出していた。もうしばらく演奏できそうだけど運指はどうなのだろう。お得意のシーケンシブなミニマル・フレーズを弾くのはさすがにもう厳しい感じもする。御大の演奏する姿を直に見るのは今日が最初で最後かも。

自分が宮殿に来た理由、結局はそこなのかなと思う。
私は昔の曲を演奏する御大が見たかったのかもしれないなあ。
ほかのおっちゃんたちもそうなんだろう?
御大も聴衆ももうたくさん年をとっていた。
懐メロでも悪くないかもね。

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

ポストモダン・ブーム以後の哲学の動向に興味が湧いて読んでみました。

いつまでも「哲学=人生論」と思っているのは日本人だけ!人工知能遺伝子工学格差社会、テロの脅威、フィンテック、宗教対立、環境破壊…「世界最高の知の巨人たち」が現代のとけない課題に答えをだす。

いや、ぶっちゃけ答えは載っていないのですが、現代社会が抱えている主要な問いに対する様々な「そもそも論」の概要が紹介されていて、ポイントが整理できると思います。大学生が読んだらいいかなと思います。
2016年9月の出版。ダイヤモンド社。著者は大学教授で専門は西洋の近現代思想

目次

▼第1章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
ポストモダン以後、哲学はどこへ向かうのか
・メディア・技術論的転回とは何か
実在論的転回とは何か
自然主義的転回とは何か

▼第2章 IT革命は人類に何をもたらすのか
・人類史を変える二つの革命
・監視社会化する現代の世界
人工知能が人類にもたらすもの
・IT革命と人類の未来

▼第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
・「ポストヒューマン」誕生への道
・クローン人間は私たちと同等の権利をもつのだろうか
再生医療によって永遠の命は手に入るのか
・犯罪者となる可能性の高い人間はあらかじめ隔離すべきか
・現代は「人間の終わり」を実現させるのか

▼第4章 資本主義は21世紀でも通用するのか
・資本主義が生む格差は問題か
・資本主義における「自由」をめぐる対立
グローバル化は人々を国民国家から解放するか
・資本主義は乗り越えられるか

▼第5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか
・近代は「脱宗教化」の過程だった
・多様な宗教の共存は不可能なのか
・科学によって宗教が滅びることはありえない

▼第6章 人類は地球を守らなくてはいけないのか
・環境はなぜ守らなくてはいけないのか
・環境論のプラグマティズム的転換
環境保護論の歴史的地位とは

内容

ポイントは下記のダヤモンド・オンラインに掲載されているとおりなので省略
diamond.jp

雑感

  • ポ・モブームの総括については別の本も読んでみたい。あれはいったい何だったのか。
  • カンタン・メイヤスーの思弁的実在論マルクス・ガブリエルの新実在論は面白そう。
  • マルクス主義を支持していたインテリたちがスターリンに見切りをつけた辺りから、近代が終焉を迎えたといわれるようになって既に数十年。ずっと踊り場のような状況が続いている。その場しのぎで踊っていたポ・モは一過性のブームに終り、アングロサクソン主導のグローバリズムリーマンショックを契機に暗雲が立ち込め、トランプ大統領で自己崩壊しかねない状況。一方で西洋とは異なる歴史や価値観を持った国々が台頭中。近代が終わったというより、普遍的だと思っていた西洋的近代化が弱体化・相対化してきたのかもしれないなあ。

サイコパスの真実

サイコパスの真実 (ちくま新書)

サイコパスの真実 (ちくま新書)

人当たりがよく、優しい言葉をかけ、魅力的な人柄。だけど、よくよく付き合うと、言葉だけが上滑りしていて、感情自体は薄っぺらい……。このような人格の持ち主を「サイコパス」と心理学では呼ぶ。近年、犯罪者の脳の機能や構造などが明らかになり、サイコパスの正体が明らかにされつつある。本書では、最先端の犯罪心理学の知見にもとづいてサイコパスの特徴をえがき、ヴェールに包まれた素顔に迫る。

前回のエントリで紹介した「入門 犯罪心理学」と同じ著者の本です。同じちくま新書からの第二弾。

サイコパスについては前著でも触れられているのですが、本作では焦点を絞り掘り下げて紹介しています。

なお、このブログでは書かれた順番で紹介していますが、実は自分は今回の「サイコパスの真実」を先に読んで面白かったので、前著の「入門 犯罪心理学」へ遡って読んだのでした。

雑感

今日はまず雑感から。

正直、読んでいて何度か嫌悪感が込み上げてくるのを感じたのですが、感情は感情として理性で読み進めました。

その嫌悪感の源泉がなんだったのかと考えてみると、自己の欲望最優先とか、ほぼ生まれつき良心がないとか、他人が苦しんでいるのをなんとも感じないとか、それなのに異性にもてるのは世の中おかしいだろとか、「うらやまけしからん」とか、会社のあの嫌な偉い人はひょっとしてサイコパスなんじゃなかろうか?とか。

サイコパスの特徴について、自分にも当てはまりそうかなと思う部分もいくつかあったのだけれど、自分はなんといっても小心者で不安を感じやすい。ホラー映画もジェットコースターも苦手。時代劇の血を見るのもゾっとしてしまう。サイコパスになりたくないにしても、もう少しでいから冷静とか勇敢になりたいですわ。「戦士の遺伝子」なんてかっこいいよなあ。

サイコパスは「どうせ不器用な人なのだろう」という先入観があったため、コミュニケーション能力や他者操作性が高い(他人を巧みに使う)というのは意外だった。

たとえば自閉スペクトラムの人たちとは共感能力の乏しさとう面で共通するけれど、対人・コミュニケーション能力の面では全く逆。不安や恐怖も比較的感じやすい人たちだと思う。

でも「共感能力がない」というのは、多数派が少数派に対して同調圧力をかけているという面もあるように思っている。サイコパスが我々多数派に対して共感できないのと同じように我々もサイコパスに共感することはできないのではないか(自分にはムリ)。多数派はサイコパスに共感できないので、強く恐れるし嫌悪感を持つし排除しようとする。結局のところ「どっちもどっちではないのか」という面もあるのでは?

とはいえ世の中そんなに甘くはない。ダイバーシティインクルージョンとはいうものの、突き詰めていくと綺麗ごとでは済まされないところに突き当たってしまう。サイコパスの排除は結局のところ社会全体のためにならないという理屈は合理的で筋が通っていると思うけれども、一方でアリンコのように殺されるのはたまったものではない。この理性と感情の乖離の幅は広くて解消が難しい。

サイコパス的リーダーで想起したのは「項羽と劉邦」の項羽項羽はとにかく勇敢で強い。残虐で冷淡で無反省。

今日は時間があったので長い記事になってしまいました。

目次

はじめに 隣りのサイコパス
第1章 私が出会ったサイコパス
第2章 サイコパスとはどのような人々か―サイコパスの特徴
第3章 マイルド・サイコパスサイコパススペクトラム
第4章 人はなぜサイコパスになるのか―サイコパスの原因
第5章 サイコパスは治るのか―サイコパスの予防、治療、対処
第6章 サイコパスとわれわれの社会―解決されないいくつかの問題
おわりに サイコパスはなぜ存在するのか

内容について

サイコパスの研究をもとにその定義や様態、原因、治療を含めた対処法等について説明したのち、サイコパスの存在理由について筆者のアイデアが述べられています。

サイコパスの定義と様態

サイコパスの中核的な要素は良心や共感性の欠如。本書では以下の四因子で説明している(カナダの反省心理学者ロバート・ヘアによる四因子)。

・対人因子
表面的な魅力、尊大な自己意識、他者操作性、病的な虚言癖、性的な奔放さ、自己中心性と傲慢さ。一見人当たりが良く魅力的。異性からもてる。卓越したコミュニケーション能力。人を操作する術に長け、心に弱みや悩みを抱えている人を見抜くのが得意。

・感情因子
冷淡性、共感性の欠如、良心の呵責や罪悪感の欠如、不安や恐怖心の欠如、冷淡さと残虐性、浅薄な情緒性、自分の行動に対する責任を感じない。後悔しない。

生活様式因子
行動コントロールの欠如、現実的で長期的な目標の欠如、衝動性と刺激希求性、無責任性、寄生的ライフスタイル。

・反社会性因子
幼少時の問題行動、少年期の非行、早期からの行動的問題、仮釈放の取り消し、犯罪の多方向性。

サイコパスはマイルドなものも含めると100人に1人の頻度で存在する。男性が多い。サイコパス=犯罪者というわけではなく、多くは社会でふつうに生活している。同時に、犯罪者=サイコパスというわけでもなく、刑務所人口のうち15%~25%程度。

ジェームズ・ボンド(007)はサイコパスの特徴を持っている。政治家、企業経営者、学者、トップアスリート、芸能人、アーティストなど成功した人にも多いという。例えば、スティーブ・ジョブズ、トランプ米大統領にもサイコパス的特徴が指摘されている。

そこまで大物でなくとも、企業の中にはサイコパスが存在し、ハラスメントや不正、企業犯罪に関与することがある。また反社会性が低く能力の高い場合には、リスクを恐れない勇敢さや冷静さ、高いコミュニケーション能力、強いリーダーシップといった長所を生かすことのできている「よいサイコパス」も存在する。

サイコパスの原因

認知、脳画像、神経伝達物質、遺伝、環境の各側面からみた原因論

認知面(説明モデル)からの仮説
・恐怖機能不全モデル
不安や恐怖などの感情的反応(生理的な反応を含む)の著しい弱さ。感情的情報のインプットがあっても、脳の情報処理回路のどこかでそれが認識されないような状況になっているのではないか。

・暴力抑制装置モデル
共感性の欠如により、暴力抑制装置が働かない。他者の表情など苦痛の手掛かりを読み取れない。

・反応調節モデル
注意力、判断力などの高次機能の障害。極端な集中傾向。たとえば自分の利益を追求するあまり、他者の利益や感情を無視する傾向。


脳の解剖学的側面(脳画像)からの仮説
偏桃体の機能不全仮説。情動を司る偏桃体など大脳辺縁系(温かい脳)が弱い一方で、理性を司る前頭前皮質(冷たい脳)は比較的正常で、バランスを欠いている。


脳の生化学的側面(神経伝達物質)からの仮説
ドーパミンの過剰。過剰に快楽や刺激を求める傾向。
セロトニンの過剰がセロトニンに対する感受性の低さ:「セロトニン不感症」につながり、攻撃性として表出するのではないか。


遺伝と環境
ある双生児研究の過去研究のレビューによると反社会的行動に対する遺伝と環境の寄与率は、遺伝が96%、共有環境0%、非共有環境4%。つまり遺伝の影響が大きい。

際立った攻撃性のある非行少年は「戦士の遺伝子」、MAOA-Lを持っている。MAOA-Lはセロトニンを分解する酵素の算出を抑制する。これがセロトニン過剰につながっている。ただし、この遺伝子が単独でサイコパスを作り上げるわけではない。

一般にパーソナリティの形成には遺伝的素因に加えて環境要因の複合的に影響している。遺伝子の発現様式には環境要因が影響を与える。サイコパスも同様である。ある英国の研究においてサイコパスと非サイコパスとの環境要因に差があったものとして大きい順に、「父親の不関与」、「身体的ネグレクト」、「父親が犯罪者であること」、「世帯収入の低さ」、「母親が犯罪者であること」、「崩壊家庭」、「きょうだいの非行」があった。

サイコパスの治療

治療は容易ではない。非サイコパスと同様の治療法では効果が期待できないばかりか逆効果の可能性も。本人の共感性や良心に訴える方法はムダ。本人に行動を改めようするモチベーションが欠けるため治療者との間に信頼関係や協働関係が築けない。

したがって十分なアセスメントとサイコパスに特化した治療プログラムが必要。介入法としてエビデンスがあるのは認知行動療法。長期間の認知行動療法集団療法に加えて個人療法でも実施し、さらに早期治療を行えば、効果が見込めそう。

治療目標をサイコパスというパーソナリティの問題の改善(善人になること)に置くのではなく、彼らのライフスタイルをより向社会的なものにすることに置くのが現実的。

早期治療と予防が効果的であり重要。例えば貧困で未婚の若い母親などに対する育児サポートやペアレントレーニング。単に刑事司法の問題、道徳や社会規範の問題ではなく、癌や生活習慣病などと同じく、生物学的要因、環境的病因によって発症し、予防も治療も可能な「公衆衛生上の問題」としてとらえることが必要。

薬物療法では、リチウムや抗うつ剤SSRI)、抗てんかん薬に効果がある可能性が示されている。

身近なサイコパスへの対処

・むやみに近寄らない。
・表面的な言葉を鵜呑みにしない。
・会う必要があるときは、一人でなく複数で会うようにする。
・自分の個人的なことは話さない。
・本人の経歴等については、客観的証拠を基に判断する。
・組織や企業では、重要な意思決定ができるポジションには就かせず、個人情報やセキュリティを扱う部署に配置しない。

偏見や差別の対象とするのではなく、害を回避しながら上手に付き合っていくことが必要。もしかすると自分もサイコパスかもしれない。

解決困難な問題(哲学的課題)

サイコパス責任能力について(自由意思の存在に関する問題)
・超ハイリスクなサイコパスへの対処(過剰な拘禁、社会的排除の是非)
・国家による遺伝子管理・子育て管理など、極めてラディカルな予防措置(消極的な優生学と親免許制度等の是非)

サイコパスの存在理由

サイコパスが絶滅せず、現代まで生き延びたということは、暴力に満ちた人類の歴史の中でサイコパスであることは一つの適応的な生き方であったし、人類全体にとっても意義のあるものだったのかもしれない。現代においてサイコパスが異常になったのは、社会の方が変化したからかもしれない(障害の社会モデル的な観点)。

集団や種全体というマクロの視点からは、サイコパスを必要以上に恐れ、排除し、悪魔のレッテルを貼るのではなく、刑罰、治療、予防などによる対処はそれぞれに重要ではあるけれども、究極のところでは、その存在と共にあり続けることが必然なのだ。

入門 犯罪心理学

入門 犯罪心理学 (ちくま新書)

入門 犯罪心理学 (ちくま新書)

犯罪心理学の現状について平易に紹介した本です。著者は犯罪心理学の専門家として現場でも研究面でも経験のある人です。

近年、犯罪心理学は目覚ましい発展を遂げた。無批判に信奉されてきた精神分析をはじめ実証性を欠いた方法が淘汰され、過去の犯罪心理学と訣別した。科学的な方法論を適用し、ビッグデータにもとづくメタ分析を行い、認知行動療法等の知見を援用することによって、犯罪の防止や抑制に大きな効果を発揮する。本書は、これまで日本にはほとんど紹介されてこなかった「新しい犯罪心理学」の到達点を総覧する。東京拘置所や国連薬物犯罪事務所などで様々な犯罪者と濃密に関わった経験ももつ著者が、殺人、窈盗、薬物犯罪、性犯罪などが生じるメカニズムを解説し、犯罪者のこころの深奥にせまる。

目次

第1章 事件
第2章 わが国における犯罪の現状
第3章 犯罪心理学の進展
第4章 新しい犯罪心理学
第5章 犯罪者のアセスメントと治療
第6章 犯罪者治療の実際
第7章 エビデンスに基づいた犯罪対策

内容について

・少年犯罪の凶悪化が進んでいる。
・日本の治安は悪化している。
・性犯罪の再犯率は高い。
・厳罰化は犯罪の抑制に効果がある。
・貧困や精神障害は犯罪の原因である。
・虐待をされた子どもは非行に走りやすい。
・薬物がやめられないのは、意志が弱いからだ。

これらの主張は、長い間、さしたる根拠もなくメディアで語られ、一般にも信じられていることですが、いずれも事実ではなく、いわば「犯罪心理学における神話」だと著者は指摘します。

犯罪心理学というと、テレビで頭の良さそうなオッサンが難しい面持ちで恐ろしくて興味深い「心の闇」のストーリーを解説するといったイメージがあります。本書の著者はその類のものは「似非犯罪心理学」と手厳しいです。

私たちには犯罪に対してひと際注目する習性があるようです。犯罪報道を、感情を揺さぶるエンターテイメントとしてエンジョイしています。メディアはそれに応えようと分かりやすくて面白い情報を編集します。

「通俗心理学」という言葉があるように、心理学はもともと胡散臭いものほど人気があるという厄介な傾向があります。また、フロイト主義などの精神分析の影響(呪縛)は特に日本においては未だ強固だと言われており、それは犯罪心理学においても同様のようです。

著者は現在の犯罪心理学について、このような主観的解釈や恣意的なこじつけとは異なり、データや先行研究の知見に基づいた科学的に裏付けられた知識であること、したがって犯罪の真の理解と効果的な犯罪対策に貢献できることを主張しています。


本書では特に犯罪のリスク要因と犯罪者の治療に関する科学的な研究動向について多くのページが割かれて、再犯予防に効果的な治療やサポートが必要だと訴えています。

治療に先立って適切なアセスメントを実施し、リスクやニーズを見極めた上で介入法の選択を行います。治療法で効果が期待できるのは認知行動療法です。日本で伝統的に盛んな精神分析心理療法ゲシュタルト療法などの人間学的心理療法の効果はエビデンスの支持がありません。

認知行動療法は端的にいうと、患者の思考パターンの歪みに注目し、これをより適応的なものに修正するトレーニングを行うもの。主に思考にアプローチし、最終的に気分や行動も変容させることを目的としています。一般の精神医療においても必要性を訴える声が大きいのですが日本では専門家が不足しているとされています。


一方、日本の刑事司法は厳罰化の方向に舵を切っています。厳罰化は再犯率を高める虞があるそうです。著者は刑罰による応報を否定しているわけではありませんが、しばしば感情論が先走りする傾向が見られることに対して懸念を表明し、効果的な犯罪抑止のためにエビデンスに基づいた意思決定、政策決定の必要性を訴えています。

「キャンベル共同計画」は犯罪に関する良質のエビデンスを提供しているデータベースを無料で提供しています。これは医療における「コクラン共同計画」をお手本として運用されているものです。日本語サイトも開設されています。

キャンベル共同計画

1990年代に「医療がエビデンスに基づいた医療」の名のもとでパラダイム転換を進めてきたように、グローバルな潮流として刑事司法や少年司法も行動科学:犯罪心理学の知見を取り入れていくことが展望されます。

雑感

とても読みやすい文章でした。ふだんあまり新書とか読まないからかなあ。

これまでも残忍とされる事件を解説した本を読んだことがあるのですが、必ずしも実体と言えないようなセンセーショナルな報道合戦や、ツイッターなどを通じたネガティブな直情反応の拡散(日常ストレスの発散みないなやつ)、それから世の中の不寛容なムードの高まり、厳罰化の風潮には、以前からなんとなくいやだなあと思っていました。

この本はあくまでも「さわり」の部分なのでしょうけれども、「なるほど」と思うこともいくつかあり、勉強になりました。

2乗3乗の法則と体格と戦闘力(!)と

暑くてなにもする気にならないと、いろんな余計なことを考えてしまうま。

筋力が筋肉の重量の増加に対して0.67乗しか増えないという説をネットで見つけた。この理屈に従うと、たとえば筋肉の重量を2倍に増やしても1.6倍くらいしか増えない。重量3倍でやっと2倍程度だ。

なぜだろう。さらにググってみたらその根拠に「2乗3乗の法則」というのをみつけた。

筋力は筋肉の太さ(=断面積の広さ)に比例する。一方、筋肉の重量はその体積に比例する。正方形の面積と立方体の体積の計算式が示すように、面積は一辺の長さの2乗で体積は3乗。だから、たとえば一辺の長さが2倍になると面積は4倍だが体積は8倍に増える。面積が9倍のとき体積は27倍。この関係を一般化すると「面積の増加=体積の増加の2/3乗」が成り立つというのが理屈。2/3乗≒0.67乗。

恐竜が巨大化しすぎて滅びたという言説にも2乗3乗の法則が関与しているらしい。この法則によれば巨大化しても筋力は体重ほど増えないから、しだいに動きづらくなってくる。それに加えて重い体重を足の裏で支えなくてならなないけれど、足裏の面積にしても体重ほどは増えないから、単位面積当たりの荷重が増大する。生活しづらい。

それから、恒温動物は同じ種でも寒い地域に生息するほど体長が大きい傾向にあるらしい(ベルクマンの法則)。マレーグマは小さいがホッキョクグマはでかい。ツキノワグマはその中間。

恒温動物が産生する体熱が体の体積(体重)に比例するのに対して放熱で外に排出する量は体表の面積に比例する。だから2乗3乗の法則によって体長が大きくなるにつれて体表面積/体重の比が小さくなると、放出する体熱/産生する体熱の比率が小さくなる(=寒さに強くなる=暑さに弱くなる)、ということらしい。生活する気候に合わせて自ずと産熱と排熱の収支が合うサイズになっているというのだ。ふーん。ゲルマン人がラテン人やアジア人より高身長なのもそのせいなのだろうか? 背の高い人は低い人より暑がりなの?

この体積と面積の関係は当然ながら人間とか動物に限った話ではないから、模型を作ってシミュレーションをするようなお仕事の人たちの間では、きっと常識の部類に入る話なのだろう。

ところで、ランニングで必要なエネルギーは、大雑把にいうと体重と距離に正比例するとされている。よく言われるのは「1cal/kg/km」。1kmの距離走るのに必要なエネルギーは体重1kgにつき1kcal。体重60kgで10kmなら600kcal。ランニングに必要なパワーも体重と速度に比例する。体重が2倍になると同じ距離を走るのに2倍のエネルギーが必要になるし、同じ速度で走るなら2倍のパワーが必要になる。筋量を増すことで得られる力の増加が重量ほどでないのならば、そのメリットは小さい。ちなみにエリートランナーの足の筋力は一般人よりも弱いようだ*1。ちょっと意外な感じもするけれど。

長距離ランナーの戦闘力(!)を示すものとしてよく使われる最大酸素摂取量 (VO2MAX)は主に心肺機能を示す指標ではあるが、やはり体重1kg当たりの値である(ml/kg/min)。VO2MAX=50は体重1kg当たり1分間に50mlの酸素を使えることを表している。同じVO2MAXなら体重が大きい方が使える酸素の絶対量は大きい。けれども体重が大きければ大きい分だけ走るのに必要な酸素が増えてしまう。結局、体重当たりの効率が重要になる。

大雑把に試算してみると、VO2MAX=50、体重60kgの場合、1分間に使える酸素は最大3リットル(=50ml*60kg)。酸素1リットルを使って糖質や脂肪から取り出せるエネルギーは約5kcal(5kcal/l=5cal/ml)というから、1分間に産生できるエネルギーは最大15kcal(3l×5kcal)となる。

一方、ランニングに必要なエネルギーは前出のとおりで、60kgの人が10km走るには600kcalが必要。

したがって、VO2MAX50、体重60kgの人が、100%の運動強度で10km走れば所要時間は40分(600kcal÷15cal)になる。100%の強度ではふつう10kmも走れないので90%とすると44分余り(600kcal÷15cal×0.9)。

体重を60kgから変化させても、VO2MAXが一定ならば最短所要時間(最大速度)は同じである。体重70kgなら必要なエネルギーが700kcalに増えるけれども、産生可能な最大エネルギーも17.5kcal/分に増える。結局のところ体重に関わらず、VO2MAXの値に5calを掛けた数字が1分間に走れる最大距離(=最大分速)になる*2

ただVO2MAXも筋肉が肥大化させるとなかなか維持するのは難しいという話があるらしい。体が大きくなれば酸素を巡らせるのも手間だということか。それとも肥大化する筋肉は主に速筋だからということか。いずれにせよエリートランナーの体型を見て推して知るべしといったところ。

サイクリングの場合、フラットなコースなら主な抵抗力は空気抵抗になる。空気抵抗には体格は多少関係するにしても体重は関係ない。むしろ慣性力は質量に比例するから、いったん加速してしまえば止まりにくくなる。車は急に止まれない。重い車ならなおさら。

サイクリングの戦闘力(!)を示す指標にはFTPというのが使われる。FTPは一時間持続可能なパワー。単位はワット、踏力トルク×ケイデンス(ペダルの回転スピード)によって生み出される。

FTPは体重当たりの指標ではなくパワーの絶対値だ。傾向として体重が重い方が有利で、体重60kgが70kgにFTPで対抗するのはけっこうしんどいらしい。踏力は筋力だけでなく自重も武器になる。とはいえ筋力には2乗3乗の法則の制約があるし、パワーはケイデンスで稼ぐこともできるのだからFTPの格差は体重ほどには開きにくいと思われる。

同じサイクリングでもヒルクライム(上り坂)となると主な抵抗力が勾配抵抗に変わる。勾配抵抗は質量に比例するから、戦闘力(!)を示す指標としては絶対値よりも体重当たりの効率が重要視される。パワーウエイトレシオ(PWR)は体重1kg当たりのFTPだ。

実際の走行時には自転車や装備の重量も加わるから、同じPWRならばFTPの絶対値が大きい方が、自転車等も含めた全体のパワーウエイトレシオは大きくなる。

しかしながら、前出のとおり筋肉の重量増がダイレクトに踏力やFTPのアップにつながるわけではないと思われるので体脂肪をより絞り込むなどしないと効率の維持・向上は難しいだろう。

ならばいっそのこと自転車を軽量化する?ロードバイクをさらに1kg軽くするには、けっこうなお値段が・・・。すでに洗練されまくったスーパーボディならともかく、ホビーサイクルの一般市民ならガンバッテ体脂肪の重量を絞った方がマシかもしれない。やっぱい世の中そう簡単にオイシイ話は転がっていなさそうだ。うーむ。

*1:コラム(健康・体力アップ情報)- 横浜市スポーツ医科学センターhttp://www.yspc-ysmc.jp/ysmc/column/health-fitness/run-2.html

*2:とはいえラフな見積もりの世界の話であり、本当はランニングエコノミー等も勘案しなければならないだろう^^;

新版 障害者の経済学

新版 障害者の経済学

新版 障害者の経済学

著者は、慶応大学商学部の教授で脳性麻痺のお子さんをお持ちの方です。
何年か前に旧版の方を読んだものの、恥ずかしながら内容はほとんど忘却の彼方へ^^;。新版が出ていたので気持ちを新たに読んでみました。

「障害者」と「経済学」。なんというかショールな組み合わせ。市場だの効率だの、身もふたもないことを臆面もなく言い放つ経済学に対して、福祉の人たちは馴染みづらいというか、いやだなあと思うかもしれませんが、限られたリソースからより大きな効果を引き出すために経済学の考え方が参考になることはあるのかなと改めて感じました。

帯の部分のキャッチコピー「障害者と作っているのは私たち自身である」。これは障害に対する本書のスタンスを示したものです。

障害には大きく2つの捉え方があります。ひとつは、障害をふつうの人と比較して機能の欠落した状態と捉える伝統的な考え方。障害者の内部に起因するものとする考え方で、これを「医学モデル」と言います。

もう一つは、障害は社会や外部環境によって規定されるものといった考え方。こちらは「社会モデル」と言われます。社会が健常者の範囲に厳格になれば障害者は増加します。もし世の中に眼鏡がなければ近眼の人も視覚障害者だったかもしれません。社会や環境が変われば障害の内容や程度も変わるのです。

「社会モデル」は比較的新しい考え方ではありますが、国連の障害者権利条約もこの考え方を採用しています。

ちなみに個人的には医学モデルも社会モデルも便宜的なもので、どちらか一方がホンモノで他方がニセモノというふうに理屈で割り切ってしまう話ではないように思っています。

内容についての詳細に代えて、終章「障害者は社会を写す鏡」から抜粋します。

本書ではこれまで、家族、教育、差別、施設、就労をテーマに障害者問題を扱ってきた。そこを通して私たちの社会はどう見えただろうか。障害者だから特別視して終わるのではなく、一般化した上で深く考えれば問題の本質が見えてくる。障害児が生まれれば家族の利己性や利他性があぶり出される。ニーズや成果が外からわかりにくい障害者を対象とすることで教育の本当の意義が見えてくる。差別の原因を探れば障害者に限らないさまざまな属性を持つ人にとって配慮が必要だとわかる。非営利組織のガバナンスは理念の曖昧な障害者施設にこそ必要不可欠だ。そして就労現場では、障害者を本業で戦力にできれば、適材適所による働き方改革の実現はたやすいことだろう。

私たちに必要なのは、障害者に映し出されている社会の姿に気づくことである。これは障害者から学ぶといってもいいだろう。身体障害者の活動ぶりを見れば、社会のバリアフリーの程度が分かる。知的/発達障害者は比較優位の重要性を教えてくれる。そして精神障害者からは、ワークライフバランスすなわち適度に休むことの大切さを学ぶことができる。こうした学びが私たちの社会を変えていく原動力になるのである。

<目次>

はしがき
序章 なぜ「障害者の経済学」なのか
第1章 障害者問題の根底にあるもの
第2章 障害者のいる家族
第3章 障害児教育を考える
第4章 「障害者差別解消法」で何が変わるのか
第5章 障害者施設のガバナンス
第6章 障害者就労から学ぶ「働き方改革
終章 障害者は社会を写す鏡
あとがき