Les Rêveries du promeneur solitaire

誘惑される意思(プロログ)

話題のフレディー・マーキュリーの映画は見ていない。そもそもそんなに知らない。けれども、自分の中で三島由紀夫とかぶせてみているところがある。性的志向における共通点はともかく、二人ともなぜ肉体鍛え上げて、大衆の眼前に曝したのだろうか。

虚弱だったからではないか。筋肉の鎧に身を包み、その鎧を人に見せたがったのは弱いからではないか。

筋肉の鎧はお金で買えない。一朝一夕に取り繕うこともできない。長い間苦痛に耐え抜いた証として、肉体だけでなく精神的な強さをも表しているように見える。

けれど、それも己の弱さを感じている証ではないか、それほど人から強いと思ってほしかったのか。そんなふうに映ってしまう。

ロックスターや人気作家は趣味や暇つぶしで歌ったり書いたりするのとは違って、なるたけ大勢の注目を集めなければならない。でも二人とも社会的にそれほど器用なほうではなさそうで、そんな職業に就いたのは、むしろ孤独や疎外を感じながら、社会に才能や存在を認めて欲しかったから、なんてこともなきにしもあらず。

けれど人気を得ても孤独病は治らないし、恐くて鎧を脱ぐこともできない。虚無感から逃げるためにボヘミアンらしく破天荒で享楽的に振舞ったとしても、後で虚しさだけが残ったりする。

結局最後には身の破滅が待っているということなのだろうか。でも太宰治の場合は虚弱さを露呈して注目されたけれど、やはり破滅した。
なにを露呈するにしても、露呈自体ががなにかとよくないのだろうか。

と、すべて自分勝手な妄想かもしれないけれど、フレディー・マーキュリーの話題を横目で眺めていて、大人しく生きている方が身のためかも、なんて凡人なりにぼんやりと思ったりするわけです。

要するに、他人の評価に依存しないで、自己満足だけのために、もっと実直に、もっと単純にストイックになれないものかと。

軸をぶらさずにPDCAサイクルをクルクルと軽快に回転させ続けるにはどんなコツがあるのだろう。

体力的な賞味期限切れを感じる中、ここのところそんなことを時々考えてみたりして。


と、ここまで次回の本編とあんまり関係のない内容でした。<続く>