Les Rêveries du promeneur solitaire

相模原障害者施設殺傷事件

前代未聞とされた事件から2年経過し、ようやくその気になって2冊選んで読んでみた。といっても読み終わってからしばらく経ってしまった。もうじき2年半が経つ。
なかなか考えはまとまらないのだけれど年末なのでこの投稿を一応のけじめとしたい。

開けられたパンドラの箱

開けられたパンドラの箱

妄信 相模原障害者殺傷事件

妄信 相模原障害者殺傷事件

一冊目は、月刊誌「創」編集部によるもの。植松被告への直接取材や本人の手記が中心となっている。

二冊目は、朝日新聞の取材班によるもの。事件の輪郭はこちらの方がわかりやすい。読む順番は二冊目から読んだ方がよかったかもしれない。

個人か社会か

何か衝撃的な事件があったとき、その原因について主に個人的なものに帰属させる考えと主に社会的なものに帰属させる考えがある。

「個人」に焦点を当てると、彼は事件の半年前、2016年1月頃から様子が変わったらしい。それ以前からヤンチャなところはあったにせよ、ヘイトクライムにつながるような極端な差別思想を周囲に打ち明けるようになったのはこの頃からなのだそうだ。

差別思想といっても本人は大まじめで、日本のため、世界平和のために障害者の抹殺を真剣に考えていた。計画を周囲に打ち明け、助力を求めたりもしていた。当然、周囲は反対したが考えを変えなかった。犯行後も変えていない。おそらく今もそうだ。

熱い正義感、強固な信念、計画性と実行力。尋常ではない。異様さを感じてしまう。

「社会」という意味では、そもそもなぜ重度の障害者が人里離れた収容施設で生活しているのか、あまり知られていない障害者の生活実態、施設職員の厳しい職務環境や低い待遇、近年の主にネット上の差別的な論調など、容易に思いつくものを挙げるだけでもいくつも出てくる。

こういった社会的な背景が今回の犯罪の発生確率を高めたのだろうか。その可能性は否定できないけれども、容易に思い付くからといって単純に結びつけてしまうのは短絡的すぎるのかもしれない。いずれにせよ、この事件が滅多に起こらない特異的な犯罪であることは間違いない。

なお、事件のあと、ネット上には植松被告に対する賛同や称賛の意見が多数あったのだそうで、そういった意見を見てなおさらショックを受けたという関係者がいるとのことだ。また、植松被告自身もヤフーニュースのコメント欄にしばしば投稿していたとのことであり、ネットの影響は多少あったのかもしれない。一般論的に見てもおそらく個人的なものと社会的なものは相互に影響しあっていると思われる。

匿名の是非

今回読んだ二冊の本、いずれも警察側が被害者と匿名としたことに対して大きな問題意識を持っている。

「匿名は障害者差別。障害者個人が実際に生きてきたことまで消してしまう」というのが、彼らの主張には一理あるようには思うものの、どうしても「メディアの論理」だなあと感じてしまう。植松被告と同じとは言わないが、これも理屈っぽい、一方向の思い込みのような感じがしてしまう。

誰かに知られなければ生きたことにならないのかというと、そんなことはないだろうと。

植松被告は、意思疎通のできない人々を「心失者」と呼び、人間ではない、生きる価値がないとした。そんなことはないだろうと。

植松被告の主張に対し、RKB毎日放送の人が自閉症の我が子の本名や写真を出した上で親の熱い想いを語った。これを二冊とも称賛しているが、私にはそれが良い行いとは思えない。それがどんなに美談でも。
本人の意思は?

すれ違う各々の主張とまったく主張の見えない当事者

他にも措置入院の在り方などの論点があるけれど省略。終わりに自分が最も印象に残ったことを書いておきたい。

この二冊の本を読んで感じたのは、それぞれの強固な信念だった。植松被告、「創」の編集者、新聞記者、事件にまつわるそれぞれの熱い思いがたくさん書かれている。そのほかにも登場人物それぞれの思いが語られている。やまゆり園の建替えを望んでいる人、逆に脱施設を唱えている人、持論と結び付けようと躍起になっている人、むつかしいイデオロギーを持ち出す人・・・各々が自分の立場で言いたいことを述べている。

数多くひしめく想いの中で、改めて感じたのは、「意思疎通ができない」とされている人々の主張がないことだった。
意思疎通ができない人が何を感じているのか見えない。
代弁者を自称する人たちならいるけれど・・・
このことはある意味当然の帰結で、誰が悪いというのでもなく、
どうしようもないように思えるだけに絶望的に感じてしまった。