Les Rêveries du promeneur solitaire

坂の上のクラウド(その1)

たまたま国家の威厳にかかわる機密情報を知ってしまった。
国家権力から「もしこの情報を漏洩したら命はないと思え」と脅されている。
けれど、とってもスキャンダラスな内容なので、仲間とシェアしたくて仕方がない。
でも死にたくない。
どうしよう?
取りあえず地面に穴を掘って、
その穴に向かって思い切り叫んでみる。



おうさまのみみは―――


現代の先進国の多くの地域では、昔と違って言論の自由というものが保障されることになっていて、自分や他人が社会に向かっていかにアホな情報を発信しようと国家権力は介入せず、個人の自由と責任において対応するのが原則で、社会にあふれるアホな情報の中から、自分や他人がいかにアホなことを信じようと、個人の自由と責任において対応するのが原則。

このような個人の自由意思を重んじる考え方の根元には、一人ひとりの理性を信頼しようという理念があって、古くは西洋で宗教的権威の支配から脱け出て、勝ち上がって、世界に広がってきた合理主義というイデオロギー。統治システムは民主制が好まれる。個々人の合理性をベースとする懐疑と批判精神が淘汰圧となって、アホな情報はやがて駆逐されるだろうから、世の中わりとうまいこと回るはず。少なくとも理屈のうえでは。

かつて、アホな大衆は自由にモノを言えず、疑うことも許されず、上から一方的に流れ落とされる価値観をひたすら信じるように強いられた。世界の中には今もそういう地域はあって、たとえば、女性への教育の必要性を口にするのにとてつもないノーベル賞級の勇気が必要で、そのせいで命を狙われたりするしノーベル賞をもらえたりもする。

もっとも、近代になったからといって、ヒトがそんなに便利になれるわけないので、悪化が良貨を駆逐して正直者がバカを見るようなこともあるし、自由サイコー!はいいとしても、北斗の拳みたいな世界を本気で望んでいるのはたぶん少数派なのだから、理念は理念として尊重しながら現実社会はうまく折り合いをつけないといけない。

ちょっと風呂敷を広げすぎてしまった。まずいな、どうやって話を収拾しようか。

ともかく、医薬品でもないのに商品や広告物等に医薬品的な効能効果に謳うことは強い制約を受ける。正規の医薬品を名乗るには、事前に有効性と安全性を厳密に審査する必要があり、その審査にものすごい努力やリソースを投じなければならない。そのうえ、こうした投資の成果は極めて不確実で途中でポシャることも珍しくない。それでもこのシステムはカンペキとは言いがたい。

もっと手っ取り早く自由に商売する方法はないだろうか。たとえば、効果効能をダイレクトに標榜するのはうまく避けて、自由が強めに保障されている書物に書いて出版し間接的に宣伝するのはどうか。

これぞいわゆる「バイブル商法」。
信じる者は救われる。信じなければ地獄に落ちるかも、と不安を煽るのは「不安商法」。
理性は?ニーズはある。追い詰められた病人はワラでも大木に見える。

―風呂敷の収拾は自由に放置して次回に続く―