Les Rêveries du promeneur solitaire

ポジティビズム!「論より証拠」論 その1

聖書のことはよく知りもしないので、あまり深入りしたくないけれど取りあえず。

ヨハネによる福音書は「はじめにロゴスありき」という有名な言葉から始まる。続く文章は「ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」。

ロゴスというのは英語のロジック(logic)の語源であり、言葉、言語、論理、理論、原理、概念、とかそんな感じの意味を持っている。

ヒトは不完全だから神様のプログラミング言語をなかなか解読できないけれども、宇宙はもともとはじめらかロジカルにできている、のだろうか?全知全能の神様が創造したものだとすると、そう言えるのかもしれない。

もしも全知全能の存在なら、不確実なものは一切なく現在も過去も未来も同じように見える、のだろうか。神業なのか、それとも悪魔的なのか *1


ものごとの因果のメカニズムを解明するストーリーは、推理小説で犯人を特定するようで面白い。そのせいもあってか、因果関係を考えるときに、わかりやすいストーリーやもっともらしい理屈にこだわりすぎて失敗することがある。

頭の中で想い描いた理屈の世界、つまり「理想」に強く惹かれ、思い余って、不完全だったり、不条理だったり、儚かったりする現実に対して否定的な感情を強く持ちすぎるようなこともある。

オカルト思想というのは、概してとても理屈っぽいという特徴がある。現世は仮の世界でここ以外のところに真の世界があると考える。その理屈上の世界へ自らを合一させることを目指す、というのがよくあるパターンだ。極端な理想主義は浮世離れして現世否定的になる。

オカルトの語源は、ウィキペディアによれば(笑)、「隠されたもの」という意味のラテン語に由来するのだそうだ。凡人には知ることのできない超自然的な真理を追究するというとか、そういう具合の意味なのだろう。

古代ギリシャピュタゴラス教団も神秘主義だった。彼らは修業の一環として数学や音楽を研究していた。有名なピタゴラスの定理はその成果の一つらしい。たしかにふつうの日常生活を過ごしていても、あんな法則を発見するのはちょっと、というか、かなりの難儀だ。

物理学などの学問も、歴史的には神秘主義的な思想が背景にあったりすることが多いようだ。宇宙にはヒトの目にはなかなか見えない真理の法則(ロジック)が隠れている。なんつったて、はじめっからロジカルにつくってあるんだから。神様が。そのロジックを解明し、最終的に真理(神)との一体化を目指す。そして永久不滅の存在になる(巨人軍でもポイントでもなく)。

こういった理屈や概念を中心とする考え方がある一方で、現世においてヒトが経験する事実を重視する考え方がある。形而上学や合理論に対して経験論や実証主義(ポジティビズム)、決定論に対して確率論。客観主義と主観主義。演繹と帰納

後者に与する人たちは、人間中心的(自己中心的?)で、ある意味で神も恐れぬ不届き者ということになる。実際、経験論を説いた人の中には懐疑論者(無神論者)もいた。デビッド・ヒュームという人。

ヒュームは因果の必然性を否定して、「蓋然性」という言葉を使った。英語でいうと” probability”という言葉。「蓋然性」のほかに「確率」とか「確率論」という意味を持っている。神様があらかじめこしらえたロジック、運命的で予定調和な必然性から、ヒトは自由になって、その結果、不確実な未来を自分で考えて自分の手足でジタバタしなければならなくなった。いわゆるリスクマネジメントなんかもそんな中で必要になってきた。

古代ギリシャの時代にはサイコロはもうあったようだ。ピュタゴラス教団があったように数学もさかんで、数多くの重要な発見がされたり証明されたりした。でも、そこでは確率論は発達しなかったらしい。決定論を受け入れていたからだろうか。

確率論が始まったのはルネサンス以降、本格的に発達したのは近代に入ってかららしい。ルネサンスの時代、欧州にアラビア数字が伝わり、それまでのローマ数字に比べて桁数の多い複雑な計算が容易になったというテクニカルな要因のほかに、人間中心の時代に移ってきたというのもあるという説もある。確率論はバクチの世界から生まれたらしいので、バクチもさかんだったのかもね。人間だもの。


あの世の理屈か、それともこの世の経験か。長い間、議論されてきたけれど、特段決着らしいものはついていない。どちらも一長一短あるからだろう。実際、理論と実験は両輪だから、どちらが欠けてもうまく回らない。でも、さっき書いたように理屈には魔法のような魅力があるから、この世の中にまだ証拠がなくても先走りしがちなところがあるし、浮世離れしてしまうこともある。


「その2」につづく、かもしれない。