Les Rêveries du promeneur solitaire

ポジティビズム!「論より証拠」論 その5

実証主義が批判した形而上学って例えばどんなものなのか?

European Mood(西洋の気分)

たしか受験勉強で古文か日本史をやっていたときのこと。新井白石の書いた文章で、西洋は形而下のものは優れているけれど形而上のものは大したことない、みたいな評価を下しているのを読んだ記憶がある。

改めてぐぐってみたところ、それは西洋紀聞という書物だったらしい。密入国して捕えられたキリスト教宣教師を取り調べて、その内容をまとめたものなのだそう。

形而上、形而下という言葉はもともと中国から輸入された言葉らしい。今では西洋哲学の用語として使われるのが一般的だ。形而上というのは形を持たず形の上にあるもの、形而下は形のあるものを指す。

形のあるものはすべからく無常であり、時が経てば朽ち果てる儚くて不完全な存在だ。時間だけでなく空間の制約も受ける。ヒトでいうと肉体に当たる。

一方、形のない概念的なものは時間や空間を超越したものだ。ヒトでいえば魂とか精神に当たり、形而下のものよりも高度で本質的なものだ、と形而上学の人たちは考える。

形而上の概念には階層があり、概念の上には上位概念があり、さらにその上位概念がある。概念の階層の最上位にはカンペキな存在がある。現世の経験では認識できない究極*1で普遍的で不可分で永久不滅の根本原理。キリスト教のような一神教では、ふつう神様のことだ。

新井白石が、宣教師の尋問に関する書物で西洋の形而上学を低く評価したというのは、キリスト教を批判したということなのだろう。読みもしないで想像でいうのもなんだけれども。

西洋って実学は発達しているみたいだけどキリスト教の理念は未熟だねえ、みたいな感じなのだろうか。よくわかりませんが。。

ちなみに新井白石朱子学を修めた人で、朱子学では理気二元論という考え方があるのだそうだ。「理」は形而上の法則や原理を指し、「気」は形而下の物質やその運動を指すらしい。

祇園精舎の鐘の音。この世ではたとえ盛者でもあっけなく滅亡してしまう。気は一定にとどまらずに動きまわる。けれども、盛者必衰という無常のシステムは必然の法則であり、不動の「理」(ことわり)だ、…そんな感じか。巨人軍がいくら強くても「永久に不滅です」というのは理に適っていない、つまり非合理的なのだ、…そんな感じか(?)

アルケーは在るのけ?

気を取り直して、ここで再び(みたび?)「はじめにロゴスありき」。原文は”En arkhēi en ho logos”というのだそうで、直訳的には「アルケーはロゴスである(であった)」なのだそう。アルケーは、根源、原始、原理とかそういった究極の存在だ。

古代ギリシャには、「アルケー=水」(万物は水である)と主張した人がいた。火だと言った人もいるし、ほかには中国の五行説(火・水・木・金・土)と似たような元素を考えた人もいた。不可分な最小単位の粒子である原子論(アトミズム)を主張する人もいた。

自然の中にアルケーを見出す人たちもいた一方で、もっと抽象的なもの、形而上の超越的なものが根源、本質だと考える人たちもいて、ピュタゴラスの場合、それは数だと考えた。

聖書の場合には、「アルケー=ロゴス(言葉、論理、概念)=神」だと考えたということなのだろう。

ソフィスティケイトされたアテナイの社会

ところで、「ソフィスティケイトされた××」というのは、近頃はあまり使われていないのだろうか。「都会的な」とか「洗練された」とか「オシャレな」とか、そんな感じで、一昔前はもっと耳にしたことがあったように思う。

“sophisticate”を英和辞典で検索してみると、「洗練する」「あか抜けさせる」といった意味に加えて「世慣れさせる」とか、もっとネガティブなニュアンスで、「純真さを失わせる」とか「詭弁で人を惑わす」と言った意味があるようだ。

この単語の文字を分解してみると、「知」を意味する「sophy」、「人」を表す「ist」、形容詞の「ic」、状態の「ate」から成り立っている。つなぎ合わせると、「知的な人のような状態」とかそんな感じになるのだろうか。

一方で、“sophisticate”からお尻の”ate”だけを除いた“sophistic”という単語には「詭弁の」「こじつけの」「屁理屈を述べる」といったネガティブな方の意味がさらに目立つ。”sophism”とは「詭弁」そのものを指す。これはいったいどういうことか。

キーワードは「sophist」(ソフィスト)だと思う。民主制の古代ギリシャ都市国家アテナイでは弁論が重要だった。巧みに弁論術を操り、時に詭弁を弄して、他人を議論で打ち負かしたり、扇動したりすることが成功の道へのポイントになる。ソフィストは弁論術や「ハウ・ツーもの」の処世術などを教えることを商売として活躍したインテリたちのことで西洋哲学界のヒール役だ。

“sophistic”は「ソフィストみたいな」という意味であり、ソフィストみたいな状態が“sophisticate”。

ソフィストの代表的な人物が残した言葉に「人間は万物の尺度である」というのがある。この世のあらゆる基準を決めるのは人間自身なんだっていう、ちょっと傲慢な感じもするけれども一理はある。要するに主観を重んじる立場であり、客観的・絶対的な価値に懐疑的な相対主義の言葉だ。

哲人王にオレはなる!

ソフィストと鋭く対立したのが究極の真理を追及する哲学者ソクラテスとその弟子プラトンだった。ソフィストに向かって「汝自身の無知を知れ」と言い放ち、世俗に媚びずに刑死を選んだソクラテス

まぁ詭弁でやり込められるのも悔しいけど、正論はもっとパワフルで追い詰められると逃げ場がなくホントーに苦しい。ソクラテスに問い詰められた人たちはよっぽど頭にきたんでしょう。たぶん。

師匠を「民主的」に殺されたためなのだろうか、プラトンピュタゴラスの影響を受けながら不条理な現世以外に究極を求める神秘主義に走った。

プラトンの考えたアルケーは現世には存在しない形而上の概念でイデアという。この世の現象は真の世界に存在する本質(イデア)が投影された仮像にすぎないのだ。

また、プラトンは民主制が衆愚政治に陥るリスクを憂慮して、哲学エリート(哲人王)を頂点とする共産主義的な国家を理想とした。哲人王って要するにそれって自分のことだよね?ポジショントーク

究極のプラトニック・ラブ💛

プラトンは少年を愛した。少年愛自体は当時さほど珍しいものではなかったようだ。ただ、世俗的なものが嫌いなプラトン先生は当然ながら(卑猥な意味での)エロに対しても否定的であった。プラトンが言うには、少年を愛することは肉体や性愛を超越した精神の愛であり、究極的にピュアな愛なのだ。

このような主張から、後世に「プラトンみたいな恋愛=Platonic love」という言葉が残ることになった。この言葉はしばしば「ポジショントーク」、じゃなくて、「純愛」と訳される。

一方でキリスト教は同性愛を非合理的で神の意志に反するから罪だ、みたいにいう。理(ことわり)も語る人が変われば正反対のこともある。人間は万物の尺度?

リーズナブルな理性

合理主義は、宇宙の秩序や法則である「理」(ことわり)、神様の意志である自然の摂理を認識し、それに従う考え方である。

現世にいる不完全なヒトが「理」を認識することができるのは、神様とつながっているイエス・キリストがこの世に現れてくれたおかげでもあるが、ほかにはヒトの精神に「理性」という神に通じる性質・能力があらかじめ備わっているからだ。

「理性」は英語で”reason”で、「推論」のことを”reasoning”という。「理性」を正しく使って推論すると「道理」を理解することができる。「道理」も英語で”reason”だ。もう「ワケ」”reason”が分からなくなってきた。

なぜヒトに理性が備わっているのかというと、それは神様がヒトだけに特別に与え給うたからである。ヒト様はもっと物質に近い下等動物とは根本的に異なるのだ。動物は、魂はあるが精神は持っていない。理性は精神に宿るから動物には理性がないのだ。

でもクジラやイルカは賢いからウシやブタより高等かもしれない。ではヒトのなかでも精神障害者知的障害者はどうなのか?動物に近いのか?

純粋に究極を強く求めると、理屈で割り切り過ぎてバランスのない極端な考えにつながるかもしれない。

こんな不味いメシはホントーの料理ではない!ホントーの料理は究極的なものだ!

理念や理想に憧れるのはよいにしても、究極的(極端)になればなるほど、排他的になって多様性を否定するようになったり、世俗や現世を軽蔑して孤立したり、原理主義の過激派になったりするかもしれない。

神学論争の名において

プラトンの一世代後の時代、アリストテレスプラトンよりも現実路線をとって、イデアの代わりにエイドスとヒューレーというのを考えた。これはさっきの朱子学理気二元論に似ていると思う。

エイドスは理でヒューレーは気だ。エイドスは概念でヒューレーは素材。エイドスはヒューレーとともに一体として実在する。

カトリックは勢力拡大の過程でプラトンアリストテレスの哲学を導入した。カトリックが欧州を支配するようになると、思想信条や言論は厳しく統制され、哲学はもっぱら神学者が行うようになった。これをスコラ哲学という。西洋哲学にとって冬の時代とされる。寒い時代だと思わんか?(ワッケイン指令)

空中戦の不毛な議論のことを神学論争というけれど、スコラ哲学ではまさしく神学論争が巻き起こった。個を超越した形而上の普遍の概念が実在するかのどうかが大きな論争となったのだ(普遍論争)。

普遍概念は本質であり、プラトンイデアのように個の実存に先立って存在すると主張する実念論に対して、イギリス人のオッカム*2は「そんなのただの名前にすぎないんじゃね?」という唯名論を唱えた。オッカムは「シンプル・イズ・ベスト」を唱えた(?)ことでも知られている(オッカムのカミソリ)。

唯名論は危険思想だった。普遍概念が実在しない名ばかりのものだとすれば、普遍概念の最上位の階層に君臨する神様の存在が揺らぎかねない。オッカムは異端として失脚したけれども、近代にさかんになったイギリス経験論につながったという説もあるそうだ。

デカルトが始めた近代の合理主義に対して、イギリス経験論は形而下の経験可能な事実に注目する立場で、形而上の理屈や本質論よりもエビデンスを重視する実証主義につながるものだった。実存主義も実存は本質に先立つという主張だ。


ちょっと中途半端だけど長くなったから今日の雑談はこれくらいにしよう。まぁ、受験生が哲学だのロックだの言ってたら、受験勉強なんか不毛に思えてきて集中できないけどな。誰のことかは秘密だけどな。そもそも数学の成績がもう少しマシだったら、ホントーは「理」系に行くはずだったのに。。

本日のBGM

邦題は「究極」。イエスのベーシスト、クリス・スクワイアに哀悼の意を表して。
この曲はプログレが廃れてきた時に従来の大曲主義(?)を止めてイメチェンを図った時のもの。
アルバムのジャケットデザインも従来のロジャー・ディーンからヒプノシスに変更した。

*1:「究極」に替えて「至高」でも可

*2:ベッカムとは別人