Les Rêveries du promeneur solitaire

ポジティビズム!「論より証拠」論 その6

モノアミン仮説-抗うつ剤の薬理学とうつ病の病理学

通俗心理学とfMRI占い

精神分析がそうだったようにヒトのココロを動かすストーリーは波紋のように広まりやすい。だって面白いんだもん。

さほど害がないものなら、いちいち目くじらを立てるのは無粋だし、だいいちキリがない...というより、自分もそれなりに面白がっている一人であることを棚に上げてしまうのも、なんとなく締まりが悪いような気もする。

心理学っぽいココロの占いもとても面白い。ウィキペディアによれば通俗心理学っていうのだそう。近年は似たような存在として芸脳人の先生方によるfMRI占いが隆盛している。通俗心理学よりもさらに科学テイストの効いた大がかりでオゴソカな魅力を持っている。

ホントーの脳科学

けれども、学問としての脳科学や神経科学はわりと微妙で地味な研究をやっているようだ。発展途上の学問で、ストーリーを解明するために欲張って深読みしようと力めば、いとも簡単に論理的に跳躍してナナメウエに飛んでいくオソレがある。

生きた人間の脳の活動を観察するのは、技術的にも倫理的にも制約が小さくない。生きた人間の脳ミソをカチ割って直接動きを覗くわけにもいかないから、間接的な証拠などを集めながら限られた手段で観察して、これらを手掛かりにあれやこれやと少しずつ探っていって小さな証拠を積み重ねる。気が遠くなる。待つしかない。

認知心理学など、他の分野である程度確立した仮説について、それを手掛かりにfMRIで確認したらこんな部位が活性化してました、みたいな研究も見かける。

たとえば最近の報道ではこんなのがあった。

■報酬選択脳どう動く? 今すぐ1万円か1週間後に1万2千円か : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO004347/20150831-OYTAT50079.html

神経経済学は神経科学の面からヒトの経済行動を説明しようとする学問で、行動経済学と神経科学を結び付けるようなものが多い。

行動経済学はヒトの経済行動を認知心理学的な枠組みをベースに説明するもの。神経経済学で認知心理学行動経済学の成果を応用・援用しているのを見かけることがある。

この記事に書いてある時間割引率という考え方自体は金融理論の基礎だ。同じものを貰うのだとすれば、すぐに手に入れる方が金利分お得である。時機が遠くなるほど危機(不確実性)も増える。将来に手に入れるものは、それをいますぐに貰える場合の価値に対して、不確実性を反映した金利に時間の大きさを掛け合わせた係数(ディスカウント・ファクターとか複利現価率という)を使って割り引くことになる。

ただ、行動経済学の研究で、ヒトの認知の傾向はこうした金融理論に基づいた合理的な割引率よりも高めであることが知られている、というか、はるか昔から朝三暮四という言葉がある。朝三暮四の猿と同様にヒトは傾向として利食いを急ぐし、多少のチャンスを捨てても手堅く利益確定したがる*1

うえの報道では、セロトニンの量と時間割引率に関する動物実験の結果も組み合わせて、ヒトに応用して、アミノ酸セロトニンの原料)の投与量別に行動の変化とfMRIの変化を観察して評価した、というものらしい。

いろんな仮説を組み合わせたり応用したりしていて、なんだか気が遠くなってくる。掴んでいるのは雲だったりしないのだろうか?

それなりの間接的な証拠をそろえたり、同様の研究を積み重ねたりしたうえで言っているのかもしれないのだけれど、この報道だけ見ると、なかなか道は険しそうな感じがしてしまう。どうなんだろう?待つしかないか。

薬理学のストーリー

薬理学という学問は、薬剤が体に対してなぜどのように作用するのかというカラクリを解明する学問。これが分かるといろいろと応用範囲が広がる。

風邪薬のCMとかには、「○○○○配合!」みたいな、長ったらしくて小難しい化合物を混入させていて、それが患部にうまい具合に作用するんで、だからとっても効いてスッキリしますっ!みたいなのがある。

ほんの短いCMの間でもそんな作用機序のストーリーを展開されると、なんだか説得されてしまう。男の子はかっこいい新兵器に弱いのだ。女の子のことはあまり分からないが、たぶん似たり寄ったりではないか。

でも、薬剤に効き目があるかどうかは薬理学のカラクリ論では分からない。仮説は立てられても実際に試して効果を確認するまでなんとも言い切れない。待つしかないか。なにを?

うつ病の病理学と薬理学

うつ病の病理を説明するストーリーにモノアミン仮説という伝統的な仮説がある。

神経細胞は細長くて両端は樹状突起というグロい形状をしている。神経細胞はこの樹状突起を介して他の細胞と情報のやり取りを行うのだが、樹状突起同士のあいだにシナプスという微妙なスキマがあって、そのスキマでモノアミンという神経伝達物質を受け渡すことで行われる。

モノアミンにはいくつか種類があって、セロトニンもその一つ。ほかにはノルアドレナリン、アドレナリン、ドーパミンなどがある。

モノアミン仮説は、この神経伝達物質が不足することでうつ病が起こっているという仮説だ。

どのような経緯でモノアミン仮説が主張されたのかというと、まずうつ病患者に抗うつ剤が効くという実証データがあって、その抗うつ剤が効くカラクリ(作用機序)に関する薬理学の研究成果を受けて、うつ病発症のカラクリ(病理)を推定した、という順番だった。

  1. ある化合物がうつ病に効くことが分かった(実証)。
  2. その化合物にはセロトニンを増やす作用があることがわかった(薬理学)。
  3. だから、うつ病は脳内のセロトニンの不足によって起こっている。たぶん(病理学)。

だいたいこんな具合だと思う。

ちなみに抗うつ剤は1950年代に偶然発見されたもの。もともと結核の薬として結核患者に投与したら、なんだかハッピーそうみたいな、きっかけはそんな感じなのだそうだ。

その後、モノアミン仮説のモデルをベースに新しい薬剤が開発されて、その効果が実証された。これはモノアミン仮説を支持する証拠の一つにはなる。ただし、絶対的なものではない。

生きた人間の脳ミソの動きを知ることはとても難しい。それにモノアミン仮説は、うつ病抗うつ剤の効き具合をうまく説明しきれない部分があって、そのうちひっくり返る可能性も十分にありそう、というか、教科書どおりの素朴なモデルとしては、すでにひっくり返っていると言っていいようだ。

想定したカラクリが間違っていたとしても、抗うつ剤が効くという事実には基本的には影響しない。現象が消えれば仮説は消える。けれど仮説が消えても現象は消えない。現象が本体だから。

もっとも抗うつ剤ってそんなに万能なわけでもない、というか、万能にはほど遠いのだけれども。すごくよく効くという人は、いるにはいるので見逃せないけれど、それほど大きな割合ではない。

限られた手掛かりで脳ミソの動きを占うのも、気まぐれなココロの動きを占うのも難しい。解明には長い時間がかかる。待つしかないか。

本日のBGM


待つしかない。

アミンとはアミノ基(NH2基)を持つ化合物のこと。そのうち、モノアミンは読んで字の如くアミノ基を一個だけ持っているモノを指す、だそうだ。でも、あみんは二人組なので一人では成立しえない。

なお、アミノ基に加えてカルボキシル基(COOH)を持つ化合物をアミノ酸という、だそうだ。

*1:他方、損失はずるずると先延ばしする傾向があるとされる。いわゆるプロスペクト理論。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その6

精神分析の対抗馬、行動分析とは...

抑圧されたリビドーが…

19世紀後半にフロイトが創始した精神分析サイコアナリシス)。無意識の構造や精神力動の概念、病因論や病理学は新しい時代への転換点となる画期的なものだった。

しかし一方で、考え方の枠組みとしては、主体(意識)にとってなかなか認識できないところに本質があるという、形而上学と類似した構造を持っていて、古い神様の代替として無意識という別の新しい神様を据えたという側面もあった。

机上の空論というのは言い過ぎにしても、精神分析は砂上の楼閣にたとえられることがある。ココロのカラクリを説明する魅力的なストーリーをうまく構築するのだが、内面の問題を扱うだけに土台となるはずの実証的な根拠が得られにくい。基礎がしっかりしていないと豪華な建物でもぐらぐらする。

フロイト自身がやっていたことは当時の時代のレベルとしてはマシな方だったのかもしれない。しかし、精神医学特有の難しさもあるためだろうか、19世紀から20世紀にかけて他の医学が急速な発展を遂げて実績を挙げるなかで、精神分析には古い権威主義が目立つようになる。

定められた枠組みの範囲内であれば、さまざまなストーリーが成り立つ。アーも言えるしコーも言える。理屈というのはもともとそういうものだ。だからこそ根拠が要るのだが、実証的な根拠が得にくいから権威を拠り所にせざるを得なくなってしまう。

古代、医者はシャーマンだった。同じ占いならブランドカの高い占い師に頼るのが無難そうに思われる。霊媒師にしてもそうだろう。そういうのって今でもワリカシよくあることではないか。必ずしも間違っているとは限らない。けれどもいささか心許ない。

実証的な根拠が確立しているのなら、ある程度の保守的な態度は妥当といえる。けれども権威だけをベースとした保守性は、それが優れたストーリーであっても神話と変わらなくなってしまう。そして信仰や戒律には迷信や偏見がつきまとう。

哲学者のカール・ポパーは、科学的な仮説とは何らかの観測データによって反証が可能な主張であるとしたうえで、反証が不可能な主張は疑似科学であるとした。そして、その疑似科学の例として精神分析を挙げた。都合の悪い事実があったとしても、アーいえばコーとなんとでも言い逃れできてしまう。

医学の発展に伴って、精神分析は主流の方法ではなくなった*1が、あの魅惑的なココロのカラクリ物語は、ポピュラーな文芸の分野では現在でも一定の影響力を保持しているし、日本の文化や社会常識にある程度は織り込まれているように思う。日本でもメディアに登場して世相を切る精神科医というのは、精神分析の色の強い人というのが、今にしてむしろふつうである。

キミタチ、サイコだよ!


プログレ界の遅れてきたスーパーバンド、UKが1979年に発表した日本公演アルバムから。ジョン・ウェットン(ベース、ボーカル)はステージの上から日本の聴衆に向かって「キミタチ、サイコだよ」と言い放った。その後、程なくしてUKは解散。

ところが、これが思った以上に日本の熱狂的なファンにウケたため、気をよくしたジョン・ウェットンは、これからはアジアで稼ぐぞといわんばかりに新たに結成したスーパーバンドをエイジアと名付けた(ウソ)。

この曲なんてもうすでにエイジアっぽい。こんな恥ずかしいタイトルの曲はプログレでは希少である。産業ロックサイコー。

なお、いまでも年に一度くらいは日本に来るが、「キミタチ、サイコだよ!」はお約束の決め台詞なのだそうだ。

反射的に滴り落ちる体液・・・

一方、精神分析にガン飛ばしてメンチ切ってタイマン張ってきたのが行動分析(ビヘイビア・アナリシス)。心理学のくせに心を研究の対象にしないという行動主義心理学。その中でも行動分析は徹底的行動主義といわれるキリコミ隊長である。

行動主義はあやふやであいまいで見えづらいココロなんてブラックボックスだと割り切ってしまう。開き直って観測可能な行動だけを研究の対象にして実験的な手法による実証を重んじる。

行動分析は内面からの説明を受け付けない。たとえば 「意志が弱いからタバコを止められない」というのはダメな主張だという。「意志が弱いからタバコを止められない」のか、それとも、「タバコを止められないから意志が弱い」のかどっちなんだかハッキリしない。行動の理由を内面に求めても、その内面の根拠を結局行動に求めてしまうとニワトリとタマゴのように循環してしまい、原因と結果をうまく説明できないのだ。

行動分析は、学習を行動の変容であると定義する。このような学習にはパブロフが犬の実験で実証した「条件反射」があることが既に知られていた。

パブロフが実証した条件付けは、もともと食べ物を口の中に入れるとヨダレがでるというのは特定の生得的な行動(=反射)をベースにして、そこにベルの音をくっつけることで成立させたものだった。

しかし、スキナーは不特定の自発行動とそれに随伴する結果によっても学習(条件付け)が成立することを示した。つまり、ある任意の自発行動の前後にある任意の刺激を随伴させて繰り返すことで学習が成立する。自発行動と随伴する刺激との関係はタイミングの問題であり、特に無関係なものでよい。

レバーを押す(自発行動)とエサ(随伴する結果)が出てくる箱にマウスを入れると、そのうちにレバーを押すことを学習する。

自発行動の頻度を増やす結果を好子 (コウシ)という。逆に自発行動の頻度が減る結果を嫌子(ケンシ)という。好子の出現により行動の頻度が増加することを強化といい、嫌子の出現により行動の頻度が減少することを弱化という。より一般的な表現だと好子と嫌子はそれぞれアメとムチに当たる。

また、弱化は好子の消失によっても起こる(好子の消失による弱化)し、強化は嫌子の消失によっても起こる(嫌子の消失による強化)。

暗い部屋で照明のスイッチを入れる (自発行動)とすぐさま明かりがつく(好子が随伴する)。スイッチと照明のカラクリなんて知らない小さな子供でも、部屋が暗いという外部環境条件に対して、スイッチを入れるという行動は容易に身につけることができる。部屋を出るときにスイッチを消すという行動は好子が随伴しないのでなかなか習慣化しづらい。

なお、スイッチを入れるきっかけになる「部屋が暗い」という外部環境条件のことを弁別刺激といい、弁別刺激→行動→結果という流れのことを三項随伴性という。

たとえば、あるクセを直したいという場合には、まずそのクセの機能を分析する。そのクセも何らかの強化がなされて学習し維持されているからだ。随伴する弁別刺激(Antecedent events)、行動(Behavior)、結果(Consequences)を検討し特定する作業を機能分析といい、3つのそれぞれの頭文字をとってABC分析と呼んだりもする。

例えば好子(アメ)が特定できたら、それを取り除くことで、クセを弱化させることができるかもしれない。またはクセが出るたびに様子(ムチ)を随伴させることも弱化の方法の可能性の一つにはなる。

あるいは特定の状況でクセがでやすいのなら、その状況(弁別刺激)を変えたり避けたりすることでクセが出にくくなるかもしれない。タバコを止めたいのなら喫煙室に立ち寄らない。お酒を止めたいならお酒を売ったり飲んだりする場所を避ける。ダイエットをしたいのなら・・・主婦のダイエットは難易度が高くなる。喫煙もふつう食後にするので、食事が弁別刺激になって条件付けされているから、禁煙中は食後がつらい。

より効果的なのは、クセの機能を分析できたなら、同じような結果(好子/嫌子の出現/消滅)
を随伴する、比較的望ましい代替行動を考えて、それに置き換える方法だとされている。

部屋が暗いままで照明のスイッチを入れずにガマンするのはつらくて長続きさせるのは難しい。けれども暗い部屋が明るくなる別の方法があるのなら、別にスイッチを入れることにこだわる必要はない。

好ましくないクセを止めることのほかに、好ましい習慣を作ることも行動分析の得意分野だ。

外部環境によって経験すること(刺激)が変わり、経験が変わると行動が変わる。「学習=行動の変容」とすると、環境を調節することで学習させようというのが、行動分析の基本的な枠組みの一つなのだろう。

行動分析は、動物の調教、障害児教育、組織のマネジメントなど幅広い範囲に応用されている。また、行動変容のちょっとしたテクニックは一般にも知られていて、たとえば次のようなものがある。

目標をメモる。記録を取る。目標をブレイクダウンしてメリハリをつける。道連れの仲間を作る。他人に向かって宣言してイイネ!ってポチってもらう。

カンペキには程速いし、言うほど簡単にうまくいかないけれども、比較的マシな選択肢になる場合があるでしょう。

ノートルダムの背むし男



Pavlov's Dogというアメリカのバンドの2枚目のアルバム”At The Sound Of The Bell”の一曲目。つまりバンド名が「パブロフの犬」で、アルバムは直訳的に「ベルの音が鳴って」とかそんな感じか。邦題は「条件反射」だったそうだ。

ジャケットの絵には巨大なベルにぶら下がった人が描かれているが、パブロフの犬とは関係なく、ヴィクトル・ユーゴーの小説に登場するノートルダム大聖堂のベルと背むし男。この曲はヒロイン登場といったところか。

たしかドラムにはビル・ブラッフォードがゲスト参加していたと思う。音から推察するとこの曲には登場していないようだ。

*1:ジヤック・ラカンを輩出したフランスなど、お国柄によって勢力を保っているところもあるとらしい

ポジティビズム!「論より証拠」論 その5

実証主義が批判した形而上学って例えばどんなものなのか?

European Mood(西洋の気分)

たしか受験勉強で古文か日本史をやっていたときのこと。新井白石の書いた文章で、西洋は形而下のものは優れているけれど形而上のものは大したことない、みたいな評価を下しているのを読んだ記憶がある。

改めてぐぐってみたところ、それは西洋紀聞という書物だったらしい。密入国して捕えられたキリスト教宣教師を取り調べて、その内容をまとめたものなのだそう。

形而上、形而下という言葉はもともと中国から輸入された言葉らしい。今では西洋哲学の用語として使われるのが一般的だ。形而上というのは形を持たず形の上にあるもの、形而下は形のあるものを指す。

形のあるものはすべからく無常であり、時が経てば朽ち果てる儚くて不完全な存在だ。時間だけでなく空間の制約も受ける。ヒトでいうと肉体に当たる。

一方、形のない概念的なものは時間や空間を超越したものだ。ヒトでいえば魂とか精神に当たり、形而下のものよりも高度で本質的なものだ、と形而上学の人たちは考える。

形而上の概念には階層があり、概念の上には上位概念があり、さらにその上位概念がある。概念の階層の最上位にはカンペキな存在がある。現世の経験では認識できない究極*1で普遍的で不可分で永久不滅の根本原理。キリスト教のような一神教では、ふつう神様のことだ。

新井白石が、宣教師の尋問に関する書物で西洋の形而上学を低く評価したというのは、キリスト教を批判したということなのだろう。読みもしないで想像でいうのもなんだけれども。

西洋って実学は発達しているみたいだけどキリスト教の理念は未熟だねえ、みたいな感じなのだろうか。よくわかりませんが。。

ちなみに新井白石朱子学を修めた人で、朱子学では理気二元論という考え方があるのだそうだ。「理」は形而上の法則や原理を指し、「気」は形而下の物質やその運動を指すらしい。

祇園精舎の鐘の音。この世ではたとえ盛者でもあっけなく滅亡してしまう。気は一定にとどまらずに動きまわる。けれども、盛者必衰という無常のシステムは必然の法則であり、不動の「理」(ことわり)だ、…そんな感じか。巨人軍がいくら強くても「永久に不滅です」というのは理に適っていない、つまり非合理的なのだ、…そんな感じか(?)

アルケーは在るのけ?

気を取り直して、ここで再び(みたび?)「はじめにロゴスありき」。原文は”En arkhēi en ho logos”というのだそうで、直訳的には「アルケーはロゴスである(であった)」なのだそう。アルケーは、根源、原始、原理とかそういった究極の存在だ。

古代ギリシャには、「アルケー=水」(万物は水である)と主張した人がいた。火だと言った人もいるし、ほかには中国の五行説(火・水・木・金・土)と似たような元素を考えた人もいた。不可分な最小単位の粒子である原子論(アトミズム)を主張する人もいた。

自然の中にアルケーを見出す人たちもいた一方で、もっと抽象的なもの、形而上の超越的なものが根源、本質だと考える人たちもいて、ピュタゴラスの場合、それは数だと考えた。

聖書の場合には、「アルケー=ロゴス(言葉、論理、概念)=神」だと考えたということなのだろう。

ソフィスティケイトされたアテナイの社会

ところで、「ソフィスティケイトされた××」というのは、近頃はあまり使われていないのだろうか。「都会的な」とか「洗練された」とか「オシャレな」とか、そんな感じで、一昔前はもっと耳にしたことがあったように思う。

“sophisticate”を英和辞典で検索してみると、「洗練する」「あか抜けさせる」といった意味に加えて「世慣れさせる」とか、もっとネガティブなニュアンスで、「純真さを失わせる」とか「詭弁で人を惑わす」と言った意味があるようだ。

この単語の文字を分解してみると、「知」を意味する「sophy」、「人」を表す「ist」、形容詞の「ic」、状態の「ate」から成り立っている。つなぎ合わせると、「知的な人のような状態」とかそんな感じになるのだろうか。

一方で、“sophisticate”からお尻の”ate”だけを除いた“sophistic”という単語には「詭弁の」「こじつけの」「屁理屈を述べる」といったネガティブな方の意味がさらに目立つ。”sophism”とは「詭弁」そのものを指す。これはいったいどういうことか。

キーワードは「sophist」(ソフィスト)だと思う。民主制の古代ギリシャ都市国家アテナイでは弁論が重要だった。巧みに弁論術を操り、時に詭弁を弄して、他人を議論で打ち負かしたり、扇動したりすることが成功の道へのポイントになる。ソフィストは弁論術や「ハウ・ツーもの」の処世術などを教えることを商売として活躍したインテリたちのことで西洋哲学界のヒール役だ。

“sophistic”は「ソフィストみたいな」という意味であり、ソフィストみたいな状態が“sophisticate”。

ソフィストの代表的な人物が残した言葉に「人間は万物の尺度である」というのがある。この世のあらゆる基準を決めるのは人間自身なんだっていう、ちょっと傲慢な感じもするけれども一理はある。要するに主観を重んじる立場であり、客観的・絶対的な価値に懐疑的な相対主義の言葉だ。

哲人王にオレはなる!

ソフィストと鋭く対立したのが究極の真理を追及する哲学者ソクラテスとその弟子プラトンだった。ソフィストに向かって「汝自身の無知を知れ」と言い放ち、世俗に媚びずに刑死を選んだソクラテス

まぁ詭弁でやり込められるのも悔しいけど、正論はもっとパワフルで追い詰められると逃げ場がなくホントーに苦しい。ソクラテスに問い詰められた人たちはよっぽど頭にきたんでしょう。たぶん。

師匠を「民主的」に殺されたためなのだろうか、プラトンピュタゴラスの影響を受けながら不条理な現世以外に究極を求める神秘主義に走った。

プラトンの考えたアルケーは現世には存在しない形而上の概念でイデアという。この世の現象は真の世界に存在する本質(イデア)が投影された仮像にすぎないのだ。

また、プラトンは民主制が衆愚政治に陥るリスクを憂慮して、哲学エリート(哲人王)を頂点とする共産主義的な国家を理想とした。哲人王って要するにそれって自分のことだよね?ポジショントーク

究極のプラトニック・ラブ💛

プラトンは少年を愛した。少年愛自体は当時さほど珍しいものではなかったようだ。ただ、世俗的なものが嫌いなプラトン先生は当然ながら(卑猥な意味での)エロに対しても否定的であった。プラトンが言うには、少年を愛することは肉体や性愛を超越した精神の愛であり、究極的にピュアな愛なのだ。

このような主張から、後世に「プラトンみたいな恋愛=Platonic love」という言葉が残ることになった。この言葉はしばしば「ポジショントーク」、じゃなくて、「純愛」と訳される。

一方でキリスト教は同性愛を非合理的で神の意志に反するから罪だ、みたいにいう。理(ことわり)も語る人が変われば正反対のこともある。人間は万物の尺度?

リーズナブルな理性

合理主義は、宇宙の秩序や法則である「理」(ことわり)、神様の意志である自然の摂理を認識し、それに従う考え方である。

現世にいる不完全なヒトが「理」を認識することができるのは、神様とつながっているイエス・キリストがこの世に現れてくれたおかげでもあるが、ほかにはヒトの精神に「理性」という神に通じる性質・能力があらかじめ備わっているからだ。

「理性」は英語で”reason”で、「推論」のことを”reasoning”という。「理性」を正しく使って推論すると「道理」を理解することができる。「道理」も英語で”reason”だ。もう「ワケ」”reason”が分からなくなってきた。

なぜヒトに理性が備わっているのかというと、それは神様がヒトだけに特別に与え給うたからである。ヒト様はもっと物質に近い下等動物とは根本的に異なるのだ。動物は、魂はあるが精神は持っていない。理性は精神に宿るから動物には理性がないのだ。

でもクジラやイルカは賢いからウシやブタより高等かもしれない。ではヒトのなかでも精神障害者知的障害者はどうなのか?動物に近いのか?

純粋に究極を強く求めると、理屈で割り切り過ぎてバランスのない極端な考えにつながるかもしれない。

こんな不味いメシはホントーの料理ではない!ホントーの料理は究極的なものだ!

理念や理想に憧れるのはよいにしても、究極的(極端)になればなるほど、排他的になって多様性を否定するようになったり、世俗や現世を軽蔑して孤立したり、原理主義の過激派になったりするかもしれない。

神学論争の名において

プラトンの一世代後の時代、アリストテレスプラトンよりも現実路線をとって、イデアの代わりにエイドスとヒューレーというのを考えた。これはさっきの朱子学理気二元論に似ていると思う。

エイドスは理でヒューレーは気だ。エイドスは概念でヒューレーは素材。エイドスはヒューレーとともに一体として実在する。

カトリックは勢力拡大の過程でプラトンアリストテレスの哲学を導入した。カトリックが欧州を支配するようになると、思想信条や言論は厳しく統制され、哲学はもっぱら神学者が行うようになった。これをスコラ哲学という。西洋哲学にとって冬の時代とされる。寒い時代だと思わんか?(ワッケイン指令)

空中戦の不毛な議論のことを神学論争というけれど、スコラ哲学ではまさしく神学論争が巻き起こった。個を超越した形而上の普遍の概念が実在するかのどうかが大きな論争となったのだ(普遍論争)。

普遍概念は本質であり、プラトンイデアのように個の実存に先立って存在すると主張する実念論に対して、イギリス人のオッカム*2は「そんなのただの名前にすぎないんじゃね?」という唯名論を唱えた。オッカムは「シンプル・イズ・ベスト」を唱えた(?)ことでも知られている(オッカムのカミソリ)。

唯名論は危険思想だった。普遍概念が実在しない名ばかりのものだとすれば、普遍概念の最上位の階層に君臨する神様の存在が揺らぎかねない。オッカムは異端として失脚したけれども、近代にさかんになったイギリス経験論につながったという説もあるそうだ。

デカルトが始めた近代の合理主義に対して、イギリス経験論は形而下の経験可能な事実に注目する立場で、形而上の理屈や本質論よりもエビデンスを重視する実証主義につながるものだった。実存主義も実存は本質に先立つという主張だ。


ちょっと中途半端だけど長くなったから今日の雑談はこれくらいにしよう。まぁ、受験生が哲学だのロックだの言ってたら、受験勉強なんか不毛に思えてきて集中できないけどな。誰のことかは秘密だけどな。そもそも数学の成績がもう少しマシだったら、ホントーは「理」系に行くはずだったのに。。

本日のBGM

邦題は「究極」。イエスのベーシスト、クリス・スクワイアに哀悼の意を表して。
この曲はプログレが廃れてきた時に従来の大曲主義(?)を止めてイメチェンを図った時のもの。
アルバムのジャケットデザインも従来のロジャー・ディーンからヒプノシスに変更した。

*1:「究極」に替えて「至高」でも可

*2:ベッカムとは別人

ポジティビズム!「論より証拠」論 その4

バタフライ効果:カラクリと予測の関係

1.コスモスとカオス

はじめにロゴスありき。聖書的にいって宇宙は初めから秩序立っていた。完全無欠の神様はデタラメなものをこしらえたりしない。こういう宇宙をコスモスと言う。もともとは古代ギリシャ神秘主義ピュタゴラスが調和のとれている状態を指して使い始めた言葉という説があるらしい。

しかし一方、そのギリシャの神話で最初に生まれた神様は秩序立っていなかった。その神様の名前はカオス。はじめにカオスありき。そういえば、小学生のときに読んだ西遊記のプロローグでも、この世に最初に生まれた神様の名前は 混沌だった気がする。

2.オモテナシとカオス

ところで、最近米国で国を挙げたババ抜きゲーム (ポーカー?)において、不動産キング (ジョーカー?)がただでさえクリーンとはいいきれない不動産業界のイメージをさらに悪化させている感じがする。

我が国においては、金融緩和や円安などの事情からアジアマネーが流れ込むインバウンド投資が目下さかんである。国内富裕層の相続税対策もあって都市部のオフィスやレジデンスの不動産価格は上昇し、利回り(収益価格)はリーマンショック以前の水準まで低下(収益価格は上昇)している。

円安効果で観光業界もインバウンドリーマンショック東日本大震災&原発事故で低迷していたホテルの客室稼働率は復調、一部屋当りの単価も上昇傾向にある。宿泊部門の売上高=客室1部屋当たりの単価×客室稼働率。宴会やレストランはいまひとつ盛り上がりに欠けるようだが、宿泊部門は好調で売上が伸びている。

不動産投資としてのホテル投資は、事業運営の巧拙に左右される要素が大きいことから特異的な難しさがあり、こういう不動産をかっこつけて「オペレーショナル・アセット」と呼ぶ*1

しかし近頃は、楽観的なシナリオのストーリーを描きやすい投資環境になった。また、都市部の質の高いオフィスやレジは価格上昇によって十分に利回りを取れなくなったため、投資対象として物色される物件の種類や地域の裾野は広がってきた。ホテルにも積極的な買い姿勢を見せる人が増えているようだ。リスクオン!

3.レバレッジ効果:不動産王にオレはなる!

カラクリをきっちり解明すれば、結果の予想も簡単になるのだろうか?

ホテル投資とは、ホテルオーナーになることであり、通常、ホテル事業の運営は業者 (オペレーター)に任せることになる。稼げるオペレーターをいかにして雇うかというのが一つのポイントで、成績不良のオペレーターはオーナーから首を挿げ替えられることもある。

ホテルの売上げから事業運営のコストを差引いた利益をGOP*2という。そこからさらにオペレーターへのフィーと固定費産税・保険料などの不動産保有コストを控険した後のすべてがオーナーの取り分。ホテル投資はトップライン (売上高)とボトムライン (利益)の格差が大きめらしい。つまり売上高利益率が低め (経費率が高め)。

売上と利益との関係において固定費はテコの原理のように作用する。売上げが少し変化するだけで利益が大きくブレるのだ。これを経営レバレッジという。売上高利益率が低く(経費率が高く)、かつ経費全体に占める固定費の割合が大きいとレバレッジの効き具合は大きくなる。

仮に現在、売上高利益率を20% (=経費率80%) とする。売上高10,000に対して利益が2,000、費用は8,000としよう。ここでは便宜的に費用のすべてを固定費と仮定する。

ホテルのお値段は、現在の相場が利回り5%(利益÷価格)で取引されているとすると、40,000になる (購入価格40,000=利益2,000÷取引利回り5%)。

購入費用はモトデ (自己資金)が12,000、残り28,000 は借金でまかなう。今なら金利は低い。借金もまたレバレッジとなる。このレバレッジ財務レバレッジという。金利を固定金利で年1%とすると、毎年支払う利息は280 (借金28,000×1%)となる。

オーナーがホテルから受け取る利益は2,000だから、利息を支払っても1,720が手元に残るカラクリだ。モトデに対する利回りは14.3%(1,720÷自己資金12,000)にのぼる。この数字は株式会社でいうと目下流行中のROE(株土資本利益率)に当たる。ウハハ‥・


ではここで売上高が10,000 から11,000 へ増収した場合について考えてみる。費用はすべて固定費だから8,000 のまま。利益は2,000 から3,000 になる。経営レバレッジによって売上が10%増加しただけで利益は1.5 倍になる計算だ。さらに支払利息控除後の手元の儲けは1,720 から2,720 に増える。約1.58 倍。モトデに対する利回りは、なんと22.7% (2,720÷12,000)。不動産王にオレはなる!ウシシ・・・

それに加えて、ホテルの収益性が改善すれば、資産価値が値上がりしてキヤピタル・ゲインも見込める。ここでは財務レバレッジがより効き目を発揮する。ホテルの資産価値が10%アップして44,000になれば自己資本は16,000(資産価値44,000-借金28,000)に。モトデは時価ベースで33%増える。フフフ…フハハハハ…ダイトーリョーも夢じゃない!?


でも、この道はいつか来た道。この好環境はいつまで続くのだろうか?中国経済は不透明さを増している。米国は遠からず利上げするといわれている。東南アジアなど新興国通貨は下落。原油などのコモディティも下落。銀行の態度が変わってお金の流れが急に止まることもある。海外マネーは浮気者で風向きや潮目が変われば余所へ飛び立つ。円高に振れればアジアの来日客も減るかもしれない。

客室の稼働率が下がってくると、競争激化やテコ入れの目的で単価を値引かざるを得なくなったりする。稼働率×単価=売上高。稼働率が10%下がって単価を5%引き下げたとする。稼働率が復活すればよいが、そうならなければ稼働率低下と単価下落とのダブルパンチで売上は14.5%低下する (1-90%×95%)。

売上高が10,000から14.5%減少して8,550になれば、費用8,0O0を控除した利益は550になる。ここから借金の利息280を支払うと手元に残るのは僅か270。かろうじて黒字を確保。

しかし、ホテルの収益性の低下に加えて将来への不透明感から、これまでの楽観的なシナリオは脆くも崩れ去った。するとリスクプレミアムが増大して取引利回りに上昇任力がかかる。取引市場はババ抜きゲームの様相へ。

ホテルから上がる利益水準が550 となり、同時に取引別回りが購入時の5%から5.5%へ上昇した場合、単純計算で資産価値は10,000になる (550÷5.5%)。購入価格の4 分の1まで下落。これに手元になんとか確保した儲け270を足しても、借金28,000 には焼け石に水。実質的な債務超過に陥る。キャッシュが回っていれば即死は免れる。だが、危険を察知した銀行が担保の積み増しを要求してきた。担保に差し出せる資産は...ない。レバレッジが逆回転して急速に収縮。大富豪から大貧民へ。

このお話はフィクションであり、投資のスキーム (カラクリ)も単純化している。カラクリが明解だったとしても、前提のちょっとした変化が結果に大きな変化を及ぼすため将来を見通すことがとても難しい。想像をはるかに超えることがある。



想像するより現象を骨身の髄に刺せよ
血潮が錆びる前に

4.バタフライ効果とカオス(と青春時代)

ブラジルで蝶が一匹はばたくとテキサスで竜巻が起こる。そんな性質をバタフライ効果というらしい。気象が決定論的な物理法則で説明できるとしても、その法則性が指数関数的なものだったりすると、パラメータの微妙な変化が予測結果 (天気予報)を大きく左右することになる。

パラメータには技術的にどうしても誤差は避けられないから、その誤差や端数処理、ちょっとした入力ミスなどに振り回されて予測は不確実で確率論的なものになったりする。こういうのをカオス理論というらしい。

カラクリが分かっていたとしても、即、結果をズバリ言い当てられるとは限らない。はじめにロゴスありき、でも結果は事実上カオス。

ちなみに些細な出来事がその後の歴史を大きく変えたなんていうストーリーは、最中では胸にトゲを刺すようなことばかりかもしれないけれど、青春時代のように傍から見ている分にはドラマチックで楽しいから、バタフライ効果ポップカルチャーでよく取り上げられるなんて話がウィキペディアに書いてあった。

おまけ:テリーボジオとバラフライ効果 (本日のBGM)


ガールズメタルバンドのAldious。この分野はまったく知らないのだが、このバンドに最近テリーボジオのお嬢さん*3がドラマーとして加入したらしい。

バンドから正式なリリースはされていないようだが、ボジオ師匠がFacebookでオレの娘がバンドに入ったぜとか言っちゃってるし、奥さんもブログに書いちゃってるんで。

なお、この動画(バラフライ・エフェクト)は前のドラマーの時代のもの。ボジオお嬢のドラムはYouTubeに上がっているものを見た限りでは、もうちょっと軽めでメタルっぽくないかな。シャープでキレのあるタイプのような感じがした。

*1:ちなみに、かっこはつけてもよいが括弧(「 」)は特につけずとも可である

*2:Gross Operating Profit

*3:デイル・ボジオとの間のお子さんではなく、今の奥さんの連れ子でボジオ師匠と血縁関係はない。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その3

一般に疲労感はプラセボが比較的よく効くらしい。プラセボ効果だって効果のうちなのだから、どうせならうまく付き合いたい。

近所のスーパーで梅果汁入りの黒酢というのを見かけたので買ってみた。お値段は比較的高め。打ち返せないくらい高すぎると見送らざるを得ないが、今回のは気分的にはストライクゾーンに入っていた。この手のものは少し高めくらいがアリガタミがある。これにポッカレモンを加えてソーダで割ってみた。

味はまずくない。少しまずいくらいの方がアリガタミがある、かもしれない。良薬は口に苦しという都合のいい常套句もある。有難味は苦い味がするのだ。

なぜアリガタミにこだわるのかというと効果を信じる材料になるからである。疑ってはいけない。信じる者は救われる。アリガタヤーアリガタヤー・・・

3た論法

巷でこんな感じの主張をみかけることがある。

  • ある特定の方法で投資をしたら大儲けした。投資必勝法伝授します!

薬やサプリメントで、「1.使った」→「2.治った」→「3.だから効いた」という3つの「た」を使った文章で効果を主張するやり方を、三段論法をモジって「3た論法」といったりする。日常生活の中でこの手の評価や判断は無意識のうちに頻繁に、文字通り日常茶飯事に行っていて、それでも大した問題になることなんて殆どない。けれども客観的に効果を主張したい場合にはツッコミどころが多くて問題だとされている。

そのサプリを使わなくても自然に改善したかもしれないし、効果があったとしてもプラセボと変わらない程度かもしれない。

2×2表

この手の原因と結果の関係を推し量る場合には、2×2表を使って比較するやり方がスッキリする。


f:id:sillyreed:20150823210214p:plain


は以下の人たちを指す。

  • サプリxを使って治った人たち
  • 投資必勝法yで儲かった人たち
  • ノーベル賞受賞者で特徴zを持つ人たち


ヒトのココロのデフォルト設定は、基本的にaにオートフォーカスして仮説に合致する例がないかどうかを自動的に探しにいく。3た論法は基本的にその動作に従っている。魅力的なエピソードが添えられていると説得力のあるストーリーになるので、セルサイド(売り手)のプレゼンとしてやるにはいいと思う。

けれども、消費者であるバイサイドの立場としては、地球から月の裏側が見えないからと言って存在しないというわけにもいかず、全体を見て客観的に評価したい時には、b,c,dの人たちにも同じように目配りする必要がある。一般に仮説が正しいかどうかを確認したいときは、無意識のオートフォーカスに任せきりにしないで仮説に反する例を意識的に探しにいくのが「急がばまわれ」的な近道となったりする。


は以下の人たちを指す。

  • サプリxを使ったのに治らなかった人たち
  • 投資必勝法yを使ったのに損をした人たち
  • 特徴zを持っているのにノーベル賞を受賞しなかった人たち

は以下の人たちを指す。

  • サプリxを使わなくても治った人たち
  • 投資必勝法yを使わなくても儲けた人たち
  • 特徴zがないけれどノーベル賞を受賞した人たち

の存在は気づいたところで重要性が低いように感じてしまう。でもできればなるべくきちんと数えたい。

  • サプリxを使わなくて治らなかった人たち
  • 投資必勝法yを使わなくて損をした人たち
  • 特徴zがなくノーベル賞も受賞しなかった人たち

群間比較試験

aとbの人数の合計がサプリxであれば、サプリxを使った人の合計になる。この人たちは「暴露群」(exposure group)という*1a/(a+b)の計算式で暴露群のうち治った人の割合が算出できる。この割合をとする。

cとdの人数の合計がサプリxであれば、サプリxを使わなかった人の合計になる。この人たちは”control group”なんていう。日本語だと「対照群」*2c/(c+d)は対照群のうち治った人の割合だ。この割合をここでは、とする。

①が②と比較してどの程度の大きさなのかを見るために、①/②を算出する。この計算結果を「相対危険度」(relative risk:RR)という*3。相対危険度が1の場合、どちらの群にも差がないということなので効果なしということになる。1を上回れば上回れるほど効果がありそうだといえる。反対に、1未満なら下回り具合によっては逆効果ということになる。

相対危険度をaからdの記号で表すと、「a/(a+b)÷c/(c+d)」となる。

相対危険度と同じような指標として「オッズ比」(odds ratio:OR)がある。暴露群と対照群それぞれについてギャンブルでおなじみのオッズを算出し、その比を算出するもの(a/b÷c/d)がある。式を変形して「a×d÷b×c」でも同じ値を求めることができる。2×2表を対角線上にたすき掛けした後で比を求める式になる。


暴露群にプラセボを超える効果があるかどうかを見たいときには、対照群にプラセボを与えて比較する。すでに確立している別の治療法の効果と比較したい場合には、対照群に比較したい治療法を施せばよい。これは、むしろ対照群の患者をなにもせずに放置しておくことが倫理上相応しくないような場合によく見かけるやり方。

暴露群と対照群とは比較したいもの以外は、条件をできるだけ同じにするのが望ましい。けれども人にはそれぞれ個人差がある。人は全く同じにしろといっても限界があるので、くじ引きなどを使ってランダムに割り当てることで、できるだけ個人差の傾向がどちらかの群に偏らないように配慮する。このような群間比較試験をランダム化比較試験という。

臨床検査と2×2表

臨床検査の感度や特異度、陽性的中率や陰性的中率について以前2回記事にした。
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2014/08/30/224736
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2014/09/13/234550

これらの関係も2×2表で表すことができる。


f:id:sillyreed:20150823210507p:plain

  • 感度=a/(a+c)
  • 特異度=d/(b+d)
  • 陽性的中率=a/(a+b)
  • 陰性的中率=d/(c+d)

顛末書?

黒酢クエン酸の有効性と安全性はどのように評価されているのだろうか。気になる評価について、ネット上に公開されている国立健康・栄養研究所のデータベースを見てみた。

黒酢
http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail850.html

概要

一般に、黒酢は静置発酵法で製造された純玄米酢又は純米酢をさし、熟成が進むにつれて黒味が増加しその色調が褐色を呈することから「黒酢」と呼ばれている。鹿児島県福山で約200年前から製造されていることから「福山酢」とも呼ばれている。JAS規格では米酢に分類される。黒酢は米、麹、水をそれぞれ2:1:6 (容積比率) の割合で仕込み、糖化→アルコール発酵→酢酸発酵と順次進行させて熟成させる。俗に「疲労回復によい」、「血圧を下げる」、「血流を改善する」、「脂質代謝を改善する」と言われているが、ヒトでの有効性については信頼できるデータが十分でない。黒酢を食事以外から一度に過剰摂取するときは注意が必要である。

安全性

黒酢を食品として摂取する場合はおそらく安全と思われる。妊娠中・授乳中の摂取における安全性については十分なデータが見当たらないため、食事以外からの過剰摂取は避けたほうがよい。黒酢に含まれる酢酸は、高濃度のものを摂取すると中毒を起こす可能性が示唆されている。

有効性

(注:下記の内容は、文献検索した有効性情報を抜粋したものであり、その内容を新たに評価したり保証したりしたものではありません。)
黒酢の有効性についてはヒトでの信頼できる十分なデータが見当たらない。


クエン酸
http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail25.html

概要

クエン酸は、レモンやライム、グレープフルーツなどの柑橘類に多く含まれるαヒドロキシ酸の一種で、糖代謝 (クエン酸回路) の中間体としてエネルギー代謝において中心的な役割を果たしている。俗に、「疲労回復によい」「筋肉や神経の疲労予防によい」などといわれているが、ヒトでの有効性については、信頼できる十分なデータが見当たらない。安全性については、経口摂取でまれに下痢、吐き気などの胃腸障害、外用剤としての使用で日光や紫外線による過敏症が報告されている

安全性

・α-ヒドロキシ酸 (クエン酸、リンゴ酸などを含めた物質の総称) として、副作用はほとんど知られていないが、まれに下痢、吐き気などの胃腸の不調を訴える人がいる。外用剤は日光や紫外線によって過敏症が起きることがあり、長期にわたると皮膚がんのリスクが高まる可能性がある。

有効性

(注:下記の内容は、文献検索した有効性情報を抜粋したものであり、その内容を新たに評価したり保証したりしたものではありません。)
α-ヒドロキシ酸 (クエン酸、リンゴ酸などを含めた物質の総称) として、外用で日焼け、乾燥を防ぐのに有効性が示唆されているが、科学的な実証は不十分である。


どうやらどちらも効果が実証されているとは言えない模様。積極的に否定されているわけではないようだけれど、これだけ巷で有名な主張がいまだにまともな検証をされていないというのは推して知るべしという感じがしないでもない。もし本当に有望ならあの強欲な(?)ビッグファーマ(^^)がただで放っておくわけがないではないか。

どうも効果に関しては精神力で脳内補完するしかないみたいだなあ。あとは使いすぎて副作用なんてことにならないように。

食べ物としてふつうに食べる分には問題がなくても、健康のためとばかりにガブ飲みすると安全性の閾値を超えて不健康なことになってしまうかもしれない。

栄養の適正量は不足する量と過剰な量の間の領域を指しているに過ぎなかったりすることはわりと多い。要はバランスなのだ。

作用があまり期待できそうにないのに副作用なんて、それってなんて罰ゲーム?信じる者はホントに救われるのだろうか?

*1:ちょっと物騒でイカツイな感じがする言葉だけれど単なるギョーカイ用語である。文学ではないからテクニカルタームには定義以上の価値判断や思い入れはしない方が無難だ。「実験群」(experimental group)ともいったりする。テクニカルタームは、ついでに英訳も覚えておくと英語の論文を眺めるときにつっかえる回数を減らすことができる。

*2:心理学などでは「統制群」と訳されることがある。

*3:「相対危険度」という表現も少しやっかいだ。今回はこの方法を有効性評価の観点から取り上げているけれども、安全性を評価するときにも同様の方法が使われる。例えば、あるバクテリアとかタバコの煙とか放射線とかに曝された人(暴露群)と、そうでない人(対照群)との結果(ある病気の発症など)を比較する際に、相対危険度が何倍になるとか、そういう使い方をする。安全性の評価から考えると暴露群や相対危険度を文学的(?)に理解しやすい。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その2

お盆カレー

ボンカレーの「ボン」ってお盆のボン?
オセチもいいけどカレーもね♡
あれはククレか…
お正月がククレなら、お盆はボンカレー、なのか?

ぐぐってみたところ、ボンカレーはお盆とは無関係で仏語の“bon”からとったのだそうだ。ボンジュールのボン。ちなみにククレは”cookless”という造語をさらに縮めたのだそう。意味わかんね。

シトシトピッチャン、シトピッチャン…♪
帰らぬチャンを待っている。
チャンの仕事はシカクぞな...
…じっとガマンの子であった…


かわいそうに…ホントーのカレーを食べたことがないんだな…
3分間待つのだぞ…いや、待ってください。
ホンモノのカレーをご覧にいれますよ!
シカクいニカクが、まあるくおさめまっせ!
(山岡停仁鶴)

ホント、意味わかんね。

魅力的なメカニズム論ストーリーの落とし穴

閑話休題
因果関係のカラクリを解き明かすストーリーは、推理小説で犯人を特定するようで面白い。そのせいか因果関係を考えるときに、わかりやすいストーリーとかもっともらしい理屈にこだわりすぎてうまくいかないこともある。

カラクリの解明にこだわるよりも、観測された事実から因果関係を推測した方がうまくいく場合も多い、というか、カラクリの理屈は理屈としてそれなりに尊重しながらも、理屈が正しいのかどうかは、やっぱり実際に試してみないことには…ということも多い。

コンピュータのプログラムにバグがつきものであるように、特にカラクリやロジックが複雑だったりするような場合、「ボクの考えた究極のメカニズム」が示す予想結果が、実際とずれてしまうことはわりとありがちなのではないか。

例えば、βカロテン。取りませベータカロチン。20年くらい前に喫煙者がサプリメントとして多めに摂ると肺がんを抑制するかもという仮説があり、小規模だったり大雑把だったりの方法ながら仮説をサポートする研究も発表されてブレイクした。

でも、きちんと調べたところ期待したような効果は確認できず、逆に肺がんが増えてしまう可能性を示唆する結果がでてきてしまい、研究は頓挫。肺がんが増えるメカニズム(理由)はわからない。

ヒトは納得するために理由(カラクリ)のストーリーを知りたがることが多いから、それがわからないという状態を受け入れるのは辛いことがあるけれども、わからないことなんて世の中にたくさんあるんだから、ある程度あきらめるしかない。しょうがない。

逆にいうと、βカロテンサプリメントが喫煙者の肺がんを増やす可能性がることが分かったように、カラクリがわからなくても観測された事実をつなぎ合わせて因果関係を推定できることもある。データにはストーリーが描かれていないから面白くない。でも、因果関係をカラクリから明らかにするのは、事実を積み重ねて推測する方法よりも難易度が高いことが多い。少し意外かもしれないけれど。

事実の積み重ねから因果関係が強く示唆されているのに、メカニズムが解明されていないとして判断を留保した結果、遅きに失するような例もある。

たとえば、水俣病は、疫学的な証拠からは早い段階で水俣湾の魚を食べることが原因であることが分かっていたにもかかわらず、病理や原因物質を解明する方向にこだわったためにとても長い時間がかかってしまった、という批判がある。

疫学のヒーロー

疫学は事実を観測して頻度や分布、因果関係を究明する実証的な学問。疫学の歴史を眺めてみると、過去には病理のストーリーや本質的(!)*1な原因物質が分からなくても記録を取って分析し、病気の原因や対処法を発見した人たちがいた。

ジョン・スノウという英国人は19世紀中頃のロンドンでコレラが流行した際に、観測したデータを分析し、汚染された井戸水が原因であることを突き止めた。これはコレラ菌が発見されるより前の時代の話。当時は病原菌というアイデア自体がまだ未確立だった。ジョン・スノウは疫学の創始者とされている。

同じく19世紀中頃、ハンガリー出身の産科医イグナッツ・ゼンメルワイスは、医療スタッフが手を塩素消毒することで病院内の産褥熱の感染を大幅に下げられることを発見した。彼は患者を救うべき自分たち医師が逆に産褥熱の原因だという、なかなか受け入れがたい主張をしたので、医療界から排斥され、悲劇的な末路をたどってしまった。強い信念とか正義感、高いプライドを持って仕事に励んでいる時は、ブレない代わりに頑なになって過ちを認められなかったりすることもあるよね。ゼンメルワイスはその犠牲になったのかもしれない。死後に名誉が回復されて院内感染予防の父などといわれるようになった。

18世紀半ば、英国の海軍軍医、ジェームズ・リンドは野菜や柑橘類を食べることで壊血病を予防できることを発見した。この発見に際して、柑橘類を与える船と与えない船とに分けて結果を比較するという、今でいうところの群間比較試験を考案したことから、EBM(evidence-based medicine)の創始者ともいわれるらしい。これぞ究極の軍艦比較試験(?)。群間比較は、集団を二つにわけて、一方にあるものを与え、他方には与えない。それ以外の条件は全部同じにして同時並行で実験をすすめるやり方。バイアスが入り込む余地が比較的少ない方法だから、現在も臨床試験や治験で一般的な方法だし、心理学など疫学以外の分野でも使われている。壊血病の発症がビタミンCの欠乏と関連することが分かったのは20世紀になってからの話。

19世紀後半、日本の海軍軍医、高木兼寛は、軍内部で流行していた脚気の原因を白米中心の食事にあるとする栄養学説を唱えて海軍食に洋食や麦飯、カレーライスを導入、脚気を大幅に減少させることに成功した。これも船を使った群間比較。一方の船には白米による和食、もう一方には洋食を与えて結果を比較する方法で実証した。英国留学組だったのでジェームズ・リンドの功績を知っていたのだろう。脚気の発症がビタミンBと関連することが分かったのは20世紀になってからの話。当時、脚気は主にドイツ留学組が主張する病原菌説が有力だった。高木も病原菌ではないが別の物質を原因と考えていたのでメカニズム論では的を外したが(ビタミンなんてまだ概念すらなかったし)、実証的な方法が海外でも高く評価され、日本疫学の父といわれている。あと海軍カレー=日本のあの肉じゃがカレーの父(?)

おまけ

ということで、やっとこさカレーの話にもどった。なんとかつながった。
しかしながら、実のところ加齢のせいか、日本風カレーはハっとしてグー?? じゃなくて、グにしてもルーにしても、デンプンと油分がややキツい感じがしてしまう。

個人的にはセブン&アイキーマカレーのレトルトが比較的さっぱりめで気に入っている。つーか、今日も食った。だけど最近セブンイレブンでなかなか見かけなくなった。

本日のBGM

*1:ちなみに「本質」(エッセンス)というのは便利な言葉だけども、もともとは「実存」(エクジスタンス)の対義語としての意味を持っていて、あの世系の魔法の言葉に属していた。実存は物質的な存在で、本質は概念的な存在。実存する肉体は時が経てば朽ちる。しかし魂は本質的な存在で永遠だ、みたいな感じ?

ポジティビズム!「論より証拠」論 その1

聖書のことはよく知りもしないので、あまり深入りしたくないけれど取りあえず。

ヨハネによる福音書は「はじめにロゴスありき」という有名な言葉から始まる。続く文章は「ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」。

ロゴスというのは英語のロジック(logic)の語源であり、言葉、言語、論理、理論、原理、概念、とかそんな感じの意味を持っている。

ヒトは不完全だから神様のプログラミング言語をなかなか解読できないけれども、宇宙はもともとはじめらかロジカルにできている、のだろうか?全知全能の神様が創造したものだとすると、そう言えるのかもしれない。

もしも全知全能の存在なら、不確実なものは一切なく現在も過去も未来も同じように見える、のだろうか。神業なのか、それとも悪魔的なのか *1


ものごとの因果のメカニズムを解明するストーリーは、推理小説で犯人を特定するようで面白い。そのせいもあってか、因果関係を考えるときに、わかりやすいストーリーやもっともらしい理屈にこだわりすぎて失敗することがある。

頭の中で想い描いた理屈の世界、つまり「理想」に強く惹かれ、思い余って、不完全だったり、不条理だったり、儚かったりする現実に対して否定的な感情を強く持ちすぎるようなこともある。

オカルト思想というのは、概してとても理屈っぽいという特徴がある。現世は仮の世界でここ以外のところに真の世界があると考える。その理屈上の世界へ自らを合一させることを目指す、というのがよくあるパターンだ。極端な理想主義は浮世離れして現世否定的になる。

オカルトの語源は、ウィキペディアによれば(笑)、「隠されたもの」という意味のラテン語に由来するのだそうだ。凡人には知ることのできない超自然的な真理を追究するというとか、そういう具合の意味なのだろう。

古代ギリシャピュタゴラス教団も神秘主義だった。彼らは修業の一環として数学や音楽を研究していた。有名なピタゴラスの定理はその成果の一つらしい。たしかにふつうの日常生活を過ごしていても、あんな法則を発見するのはちょっと、というか、かなりの難儀だ。

物理学などの学問も、歴史的には神秘主義的な思想が背景にあったりすることが多いようだ。宇宙にはヒトの目にはなかなか見えない真理の法則(ロジック)が隠れている。なんつったて、はじめっからロジカルにつくってあるんだから。神様が。そのロジックを解明し、最終的に真理(神)との一体化を目指す。そして永久不滅の存在になる(巨人軍でもポイントでもなく)。

こういった理屈や概念を中心とする考え方がある一方で、現世においてヒトが経験する事実を重視する考え方がある。形而上学や合理論に対して経験論や実証主義(ポジティビズム)、決定論に対して確率論。客観主義と主観主義。演繹と帰納

後者に与する人たちは、人間中心的(自己中心的?)で、ある意味で神も恐れぬ不届き者ということになる。実際、経験論を説いた人の中には懐疑論者(無神論者)もいた。デビッド・ヒュームという人。

ヒュームは因果の必然性を否定して、「蓋然性」という言葉を使った。英語でいうと” probability”という言葉。「蓋然性」のほかに「確率」とか「確率論」という意味を持っている。神様があらかじめこしらえたロジック、運命的で予定調和な必然性から、ヒトは自由になって、その結果、不確実な未来を自分で考えて自分の手足でジタバタしなければならなくなった。いわゆるリスクマネジメントなんかもそんな中で必要になってきた。

古代ギリシャの時代にはサイコロはもうあったようだ。ピュタゴラス教団があったように数学もさかんで、数多くの重要な発見がされたり証明されたりした。でも、そこでは確率論は発達しなかったらしい。決定論を受け入れていたからだろうか。

確率論が始まったのはルネサンス以降、本格的に発達したのは近代に入ってかららしい。ルネサンスの時代、欧州にアラビア数字が伝わり、それまでのローマ数字に比べて桁数の多い複雑な計算が容易になったというテクニカルな要因のほかに、人間中心の時代に移ってきたというのもあるという説もある。確率論はバクチの世界から生まれたらしいので、バクチもさかんだったのかもね。人間だもの。


あの世の理屈か、それともこの世の経験か。長い間、議論されてきたけれど、特段決着らしいものはついていない。どちらも一長一短あるからだろう。実際、理論と実験は両輪だから、どちらが欠けてもうまく回らない。でも、さっき書いたように理屈には魔法のような魅力があるから、この世の中にまだ証拠がなくても先走りしがちなところがあるし、浮世離れしてしまうこともある。


「その2」につづく、かもしれない。