Les Rêveries du promeneur solitaire

坂の上のクラウド(その2)

前回の大袈裟すぎる前置きはさて置き。メインテーマへ行ってみよう!

ケイト・ブッシュの「Cloudbusting」(雲退治)。

I still dream of Organon.
I wake up cryin'.
You're making rain,
And you're just in reach,
When you and sleep escape me.


いまだにオルガノンの夢を見る
悲鳴を上げて目を覚ます
パパは雨を作っていて
もうじき完成
パパと眠りが僕から去った時のこと

But every time it rains,
You're here in my head,
Like the sun coming out
Ooh, I just know that something good is gonna happen.
And I don't know when,
But just saying it could even make it happen.


でも、雨が降るたびに
パパのことが思い浮かぶ
太陽が出てくるように
ああ、僕には分かるんだ。何かいいことが起こりそうだって
いつかは分からない
だけど、口に出すだけでそれを起こすことができるのなら

終盤の和訳はちょっと(いや、特に)自信がない。
「実現できるかもって言ってるだけ」とかそんな風にも読める感じがする。


父親が黒い服の男たちに捕まって連行されるところ、ケイト・ブッシュがミュージカル風に熱演する少年は、丘の上に据え付けた奇妙なマシンから天空に向けて何か放つ。するとたちまち雨雲が立ち上り、雨を降らせる。息子も神経質そうな父親もそれぞれガッツポーズ。場所はオルガノン研究所。父親の名はヴィルヘルム・ライヒ。そしてマシンの名はクラウドバスター。

音楽はゴジラのテーマのようなストリングスのリフが印象的。しかし、9拍子のゴジラ*1に対して、この曲はきっちり4拍子。縦に短く鋭いノリ。終盤にはマーチングドラムとコーラスも入り、ボレロ風に盛り上がっていく。けれども声は低めの音程で暗くたんたんと丁寧で、PVの演技とは対照的にミュージカル的ではない。シュールとまで言ってしまうと深読みしすぎな感じだけれど。

1985年発表


最終回の次回は父親のヴィルヘルム・ライヒの仕事について少し長めに書く予定。

*1:ゴジラのテーマは、4拍+5泊の変拍子でカウントしにくいのだが、「ゴジラー、ゴジラー、ゴジラメカゴジラー・・・」と歌うとよい。

坂の上のクラウド(その1)

たまたま国家の威厳にかかわる機密情報を知ってしまった。
国家権力から「もしこの情報を漏洩したら命はないと思え」と脅されている。
けれど、とってもスキャンダラスな内容なので、仲間とシェアしたくて仕方がない。
でも死にたくない。
どうしよう?
取りあえず地面に穴を掘って、
その穴に向かって思い切り叫んでみる。



おうさまのみみは―――


現代の先進国の多くの地域では、昔と違って言論の自由というものが保障されることになっていて、自分や他人が社会に向かっていかにアホな情報を発信しようと国家権力は介入せず、個人の自由と責任において対応するのが原則で、社会にあふれるアホな情報の中から、自分や他人がいかにアホなことを信じようと、個人の自由と責任において対応するのが原則。

このような個人の自由意思を重んじる考え方の根元には、一人ひとりの理性を信頼しようという理念があって、古くは西洋で宗教的権威の支配から脱け出て、勝ち上がって、世界に広がってきた合理主義というイデオロギー。統治システムは民主制が好まれる。個々人の合理性をベースとする懐疑と批判精神が淘汰圧となって、アホな情報はやがて駆逐されるだろうから、世の中わりとうまいこと回るはず。少なくとも理屈のうえでは。

かつて、アホな大衆は自由にモノを言えず、疑うことも許されず、上から一方的に流れ落とされる価値観をひたすら信じるように強いられた。世界の中には今もそういう地域はあって、たとえば、女性への教育の必要性を口にするのにとてつもないノーベル賞級の勇気が必要で、そのせいで命を狙われたりするしノーベル賞をもらえたりもする。

もっとも、近代になったからといって、ヒトがそんなに便利になれるわけないので、悪化が良貨を駆逐して正直者がバカを見るようなこともあるし、自由サイコー!はいいとしても、北斗の拳みたいな世界を本気で望んでいるのはたぶん少数派なのだから、理念は理念として尊重しながら現実社会はうまく折り合いをつけないといけない。

ちょっと風呂敷を広げすぎてしまった。まずいな、どうやって話を収拾しようか。

ともかく、医薬品でもないのに商品や広告物等に医薬品的な効能効果に謳うことは強い制約を受ける。正規の医薬品を名乗るには、事前に有効性と安全性を厳密に審査する必要があり、その審査にものすごい努力やリソースを投じなければならない。そのうえ、こうした投資の成果は極めて不確実で途中でポシャることも珍しくない。それでもこのシステムはカンペキとは言いがたい。

もっと手っ取り早く自由に商売する方法はないだろうか。たとえば、効果効能をダイレクトに標榜するのはうまく避けて、自由が強めに保障されている書物に書いて出版し間接的に宣伝するのはどうか。

これぞいわゆる「バイブル商法」。
信じる者は救われる。信じなければ地獄に落ちるかも、と不安を煽るのは「不安商法」。
理性は?ニーズはある。追い詰められた病人はワラでも大木に見える。

―風呂敷の収拾は自由に放置して次回に続く―

名物ドラマー、ボジオ師匠


超巨大な打楽器のセット(!)
足元のバスドラからドコドコドコドコという低い音が
猛烈な空気圧を伴ってパンチの連打のように押し寄せる
マシンガンでボディーブロー
なんだ、このプレッシャーは?(汗)
なんだか息が苦しいよ
ついにセルが本気を出した(?)
バカバカしくて笑いがこみあげてくる(笑)


今回は奇妙なポエム(?)からスタート。色も思い切ってピンクにしてみた。絶好調。
先週、ブレッカー・ブラザーズ・バンド・リユニオンによるベビー・メタル・ビバップ・ツアーの来日公演へ行ってきた。

9割以上が男性で、50代が中心か。どちらかというとサラリーマン風の比較的地味目な身なりの人が目立つような気がする(地味目が目立つ?)。平日の川崎とあって席には若干余裕あり。

ブレッカー・ブラザーズについては、実のところあまりよく知らない(スイマセン)。

とっさにググったところによれば、ブレッカー兄弟を中心に、主として70年代後半に活躍したジャズ・フュージョンのバンドで、1978年のライブ・アルバム「ベビー・メタル・ビバップ」はそのジャンルの界隈では名盤に数えられることが多いらしい。「ベビー・メタル・ビバップ」は今年再発の日本版を買って持っている。ファンキーなブラス。

このアルバムでドラムを叩いているのが、われらがボジオ師匠。フランク・ザッパのバンドで共演したのが縁でゲスト参加した模様。

ヘヴィ・メタル・ビ・バップ

ヘヴィ・メタル・ビ・バップ

ブレッカー兄弟のうち、弟のサックス名人、マイケル・ブレッカーは数年前に他界しており、今のバンドのサックスは兄ランディの奥さんが担当。ただの奥さんかと思ったら本格的なサックス奏者だった。

でも演奏の中心はやはりボジオ師匠だった。ドラム(というか、あれはもう別の楽器)の五月蠅いこと。録音では再現できない騒々しさ。



ハーモニーって何?アンサンブルって何?


圧倒的な存在感で一人気を吐きまくり、その気の巨大さに圧倒された。

アップテンポの曲でスピードに乗って、フィギュアスケートのようにフル回転のウルトラC的なオカズが決まると、
その瞬間、奇声があがる。
あまり高尚な音楽の聴き方じゃないのかもだけど原始的に楽しい。
主旋律なんてオカズを決めるための助走みたいなもんだ。
バカです。スイマセン。

後で思うに、あのバスドラの「ドコドコ」は日本の大太鼓の音に似てる?
スネアは高く硬くて乾いた「コン」という音で、これも日本の小太鼓に似ている感じがする。
金物類はサスティンが少なくて鋭く乾いた音で「カシャカシャ」、「キシキシ」という多少耳障りでメカニックな音。
とにかくユニークの音を出すので好みは激しく分かれるだろう。
自分も必ずしも好きな音とは言えないのだけれど、変わってるから面白い。OK

YouTubeで眺める限り、このバンド、師匠がいないともっと素直に心地よい音を出しているみたい。
師匠はバンドでふつうの音楽をやるにはアクが強すぎるなあ。
これからはソロをメインにやるとのことだけど正解かなあ。
一人でステージができてしまう打楽器奏者なんてそういないんだし。

本日のBGM

往年のブレッカー・ブラザーズの曲。今回もこの曲で盛り上がった。

このころのボジオ師匠の音はまだわりとふつう。キレのよいツブぞろいのアタックでダイナミックに展開。

ボジオ師匠の演奏というと、フランク・ザッパによる以下のドラムの難曲がわりと有名。

曲のタイトル「ブラック・ページ」は、音符で譜面がまっ黒という意味らしい。ただ、ザッパだけに単なる早打ちの曲ではなく、やっかいな難しいリズムで、「入れ子状の連符」(連符の中に連符)を多用している、と言っても自分にはよく分からない(スイマセン)。素人的には、やたらめんどうな演奏をする中で、ハイハットメトロノームみたいにずっと一定のリズムを保って開閉している左足がすごいと思うんですけど。両手と右足はまったく別のリズム、つまりポリリズムで拍子がどんどんずれていく。

近年の姿をもう一つ。

ギターは、アラン・ホールズワースのそっくりさんってことで、エディ・ジョブソンがネットで発掘したオーストリア人(正しい?)でザッパのファンでもあるらしい。ベースはホールズワースのバンドの人。ちなみにホールズワースのバンドのドラマーもザッパスクールの卒業生。そういう近所付き合いみたいな感じ。

Market Timer

念願(?)のパソコンを買いました。エネルギーとスペースを浪費するデスクトップなんて日本にはフィットしない、もう時代遅れ、とばかりに、薄型軽量で低スペックのウルトラブックなるものを衝動買いしてからまだ2年足らず。

省スペースで余裕ができるどころか、コンパクトさゆえの窮屈さになじめず、不自由さに我慢ならず、ボディが貧弱で子供に触らせることもできず、国内メーカーを選んだのにブランドごとファンドに売りに出され、要らないアプリが限られたメモリを浪費し・・・・と、そんな感じで重厚長大のデスクトップに出戻ってしまったという情けない次第です。スマホもスマートに使いこなせないのですが、もうあきらめ気味。足りないのは情熱。スマートなんていう見かけばかりの薄っぺらなファッションは大嫌いだ、なんて逆切れ。みっともない。

買い換えようと思ったのはもうずいぶん前のことでしたが、消費増税前の駆け込みとWindows XPのサポート切れという大きなイベントを控えていたので、ホトボリが冷めるまで待つことに。市場動向に目を光らせていたわけではないですが、需要が落ち着き始めたという新聞記事を見かけるようになり、そんな中で次のOS(Windows10)の発表があったので、今度は買い控える人かちが出てくるのではないかという想像も湧いてきて、自分なりに勝手に納得したつもりのタイミングです。

このタイミングでの購入の良し悪しは、後になってみないことには判りません。詳しい人だったら、もっと違う時機を勧めるのかもしれません。一方で、市場の需給のタイミングを見計らうことの見返りを得るのは、想像するより難しそうだなと思っています。

その理由は、自分が思いつくようなことなんて、往々にしてほかの人も思いつくものだから、というのが一つ。

タイミング勝負は、自分と同じ立場にある他のたくさんの買い手、それから、取引相手となるたくさんの売り手を時間差で出し抜こうともくろむ行為で、人よりスマートに振る舞って大勢の裏をかく必要がありますが、人並みの人間がそのつもりでやっても、実のところ、そうでもなかったりする、そんなもんだと思います。世の中うまい話がそう易々とそこいらに転がっていない。

もう一つの理由は、市場価格がある程度ランダムに動くと考えた場合、タイミング勝負は単なる運試しの要素が強くなり、努力や才能が報われにくくなってしまうのではないか、ということです。

いくら熟練した勝負師だろうとも、規則性のないデタラメな動きに対しては、予想する努力は無駄になってしまいます。

たとえば、サイコロ研究の第一人者でこの道一筋30年のサイコロ振り師(!)が、もっともらしいシナリオのストーリーを描いて次に出る目を予想したとしても、当てられる確率は、(そのサイコロがフェアなものなら)1/6であり、サルがやるのと同等です。ギャンブルならそれもまた一興ではありますが。。

チェスの達人は、(今のところ)スパコンにも勝てるらしいので、熟練した専門家の力を借りる価値は大いにあるのだろうと思います。専門家なら情報戦で多数派を出し抜くことができるかもしれません。ところが、ファンドマネージャーエコノミスト、政治評論家といった辺りの専門家の予想があまり当てにならないのは、予想の対象の動き方がそれなりにランダムだから、なのかも知れません。

タイミングを計る努力がすべて無駄、とまでは言わないまでも、凡人にはなかなか難しい所業です。「最高のタイミングだった」なんていうのは、後からほのぼの思うものです。「あらかじめ自分はそうなるような気がしていたんだ」なんていうのも、本気でそう感じたとしても、たいてい結果を見て後から付け加えられたものだったりするのです。残念ながら。

でも、タイミングで勝負しようという発想は、「自分には凡人よりうまく立ち回れるかもしれない」という、健康な凡人ならば通常に持っている人情がベースになっていると思われます。ドン・キホーテの如く、ランダムな動きに対して勘違いで何らかの規則性を見出し、勝手に因果ストーリーを創作して満足するのも人情であります。

結局は自分で納得できるやり方を選ぶというのが、後悔を減らすことにつながるんですかねえ。人は後悔を回避するためなら、多少損でも犠牲を受け入れます。実際にパソコンが安く買えたかどうかなんて二の次なんです。(汗)

もう二度と後悔はしたくないので現実から目を背けようとも積極的に納得しにいくつもり(大汗)。自分の選択は正しかったんだ!(滝汗)

本日のBGM


時をかける少女。時にかける中年男。

記事のタイトルの「マーケット・タイマー」というのは、アラームがなったりするわけではなく、金融市場等で投資する際にタイミングで勝負する人たちのことを指します。

マゾヒストはポジティブ思考かもしれない論(略してMPT)

ウサギとカメの話、あれは、ウサギさんが油断して居眠りしていたのではなくて、ひょっとしたら、調子に乗って飛ばしすぎて途中でヘバってしまったのではなかろうか、などと余計なことを思い浮かべながら暮らしている今日このごろ。なんというか、飛ばしすぎてしまうのも油断のうちというか、自分の実力を過信してしまったのかもしれないし、そうではなくて、もしかしたら、不安とか緊張のせいかもしれない。まあ別にいいです。

さて、今日のタイトルの話。ここでいうところのマゾヒストは、被虐性愛といった本来の意味のものではなくて、世間でいうところのストイックというか、厳しい試練を自らに課す人という意味合いでのマゾのことです。こういうことをする人は、わりと前向きな考えを持ってやっているのではないだろうか。

というのは、自らに試練を課す前提として、事前にある程度、自分にはそれをやり遂げられるだろうという自信とか、楽天的な考えがあるということではないかと思うからです。この自信は往々にして根拠の薄い、つまり自信過剰である可能性があるのですが、こうした前向きな考え方は、たとえ厳しい条件の中でも失敗を恐れず、かかんに挑戦し続ける原動力になるのだろうと思います。

近代の合理的な資本主義の形成に宗教的な禁欲主義や勤勉さが貢献したと考えた人が昔いましたが、そういった話に似ているのかな。あんまり似てないか・・・。


どんなに困難でー
くじけそうでもー
信じることサー
必ず最後にマゾはカツー!

…みたいな。

ただ、ポジティブにかかんに攻めていくと、実際、ミスは多くなってしまいます。ミスしてもそう簡単にはくじけず反復するのがポジティブ思考の長所であり、攻撃的な役割の場合には期待が持てそうに思います。創造性を発揮するのもポジティブな方がベターなようです。一方でミスが許されない役割をこなさなければならないシーンでは、軽いポカをやらかしてしまうリスクが高まりそうです。守備的な場面では眉間にしわを寄せて多少なりとも慎重になった方が吉ということでしょうか。

今日は、ちょっと説教臭いですね。
ドーモスミマセン。

本日のBGM


時折、ポジティブは軽くて少々バカっぽく見えたりすることがある。ポジティブ・シンキング・バカ(略してPTB)。


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

9月も終わるので

九月、長月、September。

この辺りは厳しい残暑が続いたここ数年の中で、今年は9月らしい過ごしやすい気候だった。おかげでエアコン代も浮いた。もっとも、ここ数年の残暑が厳しかったとはいえ、秋分の日を過ぎる辺りからは、さすがに涼しい日が増えたような気はする。暑さ寒さもなんとやら。


September そしてあなたは
September 秋に変わった

竹内まりやの”September”をYouTubeで検索したのだけれども、カラオケばかりで本家が見当たらなかった。カラオケもYouTubeに上げるだけあって、みなさんなかなかお上手ではあるのだが、今回はこちらを。

1982年。とってもニュウウェーブ。土屋正巳のギターはエイドリアン・ブリューのよう。すごく意識してる。


秋というと、この曲かなあ。


つらくても つらくても 死にはしない・・・(溜息)


秋の海というと、こんな曲もある。

混声合唱組曲「復活」の1曲目、「わすれられた海」。
歌詞はこんな感じで始まる。


秋の日本海
それは わすれられた海

浜辺には 人もなく
旗もなく うた声も聞こえず
あるのは、 ただ
一そうの廃船。
そのへさきにとまる
一羽のカラス。

秋の日本海とか演歌すぎる。「うた声も聞こえず」とか・・・
曲は古典的な現代音楽風でオールドウェイブではありますが、かっこいいフレーズもある。


海の歌なら自分はこれが好きだ。(いつのまにか海の話に・・・)

ロバート・ワイアットの”Sea song”。まっすぐな声。終盤は鳥肌もの。坂本教授はロバート・ワイアットを世界一悲しい声の持ち主と評したことがあるという。

ロバート・ワイアットは、20代後半の時、酔っぱらって5階から転落し半身不随になった。ドラマーとしての人生が断たれ・・・というか、障害者として残りの人生を生きることになった。復帰第一弾として1974年発表したアルバムが” Rock Bottom”で、”Sea song”はこのアルバムの1曲目。

”Rock Bottom”は、直訳的に「岩底」。「最低」、「どん底」といった意味も。音楽のロックと掛詞にもなっている。坂本教授の評価は、こういった背景も込みで言ったものなのだろう。たぶん。

The Dark Side of the Moon(その2)

「裏側」という言葉はなんだかぞくぞくしますね。月の裏側には、キシリアの基地があるんですよね。ガンダム的に。

さて、またまたここで問題です。

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4枚カード問題
「もしあるカードの表に偶数が書いてあるならば、そのカードの裏面にはアルファベットの母音が書いてある」といった前提が成り立っていることを確かめるには、上のどのカードをめくって調べる必要があるだろうか。

写真は、伊勢田哲治さんの著書「哲学思考トレーニング」(ちくま新書)から。問題自体はFAQみたいな頻出のものですので、ご存知の方も少なからずいるのではないでしょうか。4枚のカード全部めくって確かめればいいのですが、めくる枚数はできるだけ少なく。4枚ともカードの表には数字、裏にはアルファベットが書いてあります。


<答え合わせ>
答えは「2」と「T」の2枚です。

  • 「2」を選ぶのは、裏に母音が書いてあるかどうかを確かめるため。
  • 「T」を選ぶのは、裏に偶数が書いてないかどうかを確かめるため。


いかがでしたでしょうか。「2」と「A」を選んでしまうというのが頻度の高い間違いだとされています。

「2」はふつうに選ぶとして「[A]はどうでしょう。実は「A」の裏側が偶数だろうと奇数だろうと前提は覆ることはありません。前提は「偶数ならば母音」というものであって、「母音ならば偶数」というものではないからです。

もう一つ、「T」を選ぶのを忘れてしまいがちです。「T」の裏にもし偶数が書いてあったら、前提はひっくり返ってしまうのですが、この作業はしばしば見落とされてしまいがち。


人は一般に、ある主張に沿った事柄を確かめにいくのはとても得意なのですが、その主張を反証する証拠がないかどうかを確かめるのは苦手だといいます。これは確証バイアスという認知の偏りにつながっていて、先入観などから強い信念が形成されていく過程でこのバイアスがしばしば関与します。都合の悪い証拠は見えづらくなってしまう。


これは、ある種の自己欺瞞ではあるのですが、無意識のうちに自動的に実行される機能で、意識的に不都合なものを無視するというものではなく、目に入りづらいのです。眼球には映っているのに認識しづらい。認識できたとしても、たいした話じゃないような気がしてしまう。本人は大真面目だったりもします。なんだかバカみたいだけど、基本的にみんな同じです。残念ながら。


正常な人間の心理機能には同じような自己欺瞞システムがたくさん備わっています。長い長いサバイバルゲームの中で、それが適応的だったからだと思われます。でも、たまに盲点を突かれてしまいます。わざと盲点をつつこうとしてくるようなケースも、まぁ、あるにはあるし。


したがって、ある主張が正しいかどうかを判断する際には、正当な疑いをきちんと否定できるかどうか確認した方がいい、ということになります。その主張を支持するような証拠をたんまり掻き集めても、それだけでは足りないんです、と。「A」の裏でなく「T」の裏を見にいかないと。刑事事件だと、たとえばアリバイがあるのかどうかとか、当たり前のことですが、そんな感じ?


以前書いた記事
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2013/06/15/182944

合理性の素晴らしさの度合いは、その主張そのものがどの程度理路整然としているのか、というだけでは十分ではないだろう。その主張に対する合理的な疑いをどの程度排除できるのかというのも重要な要素だろう。


確証バイアスに関して以前こんなことを書いたことがありました。
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2013/05/26/155450


逆に、そもそも反証できないような主張(間違っていることを確かめる方法がないような主張)は、あやしい主張かもしれない、というのは科学哲学のカール・ポパーさんの考え方。
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2013/06/15/133121


哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))


本日のBGM

裏!裏!ベッカンコー

(ちょっとネタに困っています)