Les Rêveries du promeneur solitaire

どこかにあるのかディストピア

オレはオレだ。


トートロジー(同義反復)は論理的には無意味とされている。「オレはオレだ」はとてもシンプルな同義反復。「A=A」と述べているだけで論理的にはなにも説明していない。しかしながら、文学的というか、口語的というか、実際には前後の文脈次第で多様な意味を持つ。

なんだか当たり前すぎてウンザリしますね。

ところで「ユートピア」という言葉は英国のトマス・モアという人が16世紀に描いた理想郷のことだ。「どこにもない良い場所」という意味の言葉をモジった造語なのだそうだ。

だから、ゴダイゴのガンダーラ、「どこかにあるユートピア」という歌詞には、論理的には矛盾が内在している。シンプルに間違っている。

けれども、ポエム的にはむしろそこがポイントで、「どこにもないはずの素晴らしい場所がどこかに実在する」という含みを持たせることになる。

そして、その含みによってその後に続く「どうしたら行けるのだろう、教えてほしい」という言葉に、より一層の強い期待や切実な願いを込めることを可能なさしめているのだ-

こんなふうにイチイチ解説するのはヤボというものだし、余計なお世話である。ポエムなんてそれぞれ自由に読めばいい。

その「ユートピア」という書物には共産主義的な理想郷が描かれている。ところが20世紀になり、ファシズムやらソ連やら全体主義的な管理社会が実現した結果、ユートピアのネガティブな側面が「ディストピア」としてSF小説などを通じて描かれるようになった。

たとえば日本の漫画だと「地球(テラ)へ」なんか典型か。コンピュータに厳格に統制される社会。

さて、今年からマイナンバーである。取りあえずは税金と社会保障から。今後どの程度用途が拡大するのかはわからない。行政コストの削減や税金の取漏れにどの程度寄与するのだろうか。

もともと人にはひとりひとり記号が付いている。氏名だ。しかしながら改めて一人一人に番号を付ける必要があるのは、氏名が記号としての役割を十分に果たせていないからだ。

明治政府が平民にも姓を与えて組み立てた家長を中心とする家族制度は名も実も失って十分に機能しなくなった。その他の条件もずいぶん変わったし。

マイナンバーは氏名の補完なのか、それとも代替なのか。代替ならばマイナンバーができたんだから、極端な話、もう名前なんていらなくね?なんて。

たしかに番号よりは覚えやすいし実用的だけど、それなら実用に応じてみんな好きなように名乗ればいいじゃない。ポエムの解釈が自由なように。

名前を呼ばれて、うっかり返事をするとヒョータンのなかに封じ込められて、とろけてしまう。西遊記の金角、銀角のところで出てくる紅瓢箪のお話。

このツールは実名に対して反応した場合にのみ有効で、偽名(「空悟孫」など)に返事をしても何も起こらない。これは実名が実体と強くリンクしているという考えがベースにある*1

しかし、マイナンバーが何番だろうと「オレはオレ」であるように、どんな名前で呼ばれようと(または名乗ろうと)「オレはオレ」ではないか。

名は体を表すという言葉があるけれど本当だろうか。名ばかりのものではないのだろうか。氏名は「アイデンティティ」か、それとも「ID」なのか。

ということで、マイナンバーが選択的夫婦別性を許容するかどうかという問題につながるのか、つながらないのか、わかりませんが。

極端な話をしているのは承知しています。自分もサヨクにせよウヨクにせよ極端なのは凡人並にニガテだ。

ジョン・レノンは「想像してみなよ、簡単だろ」って言うから想像してはみるものの、言うは易し行うは難し。横山やすし西川きよし

自分が名前を変えたいと思っているわけでもない。でも自分の考えを他人に強制しようともあんまり思わない。他人からあんまり強制されたくもないからね。オレはオレだからさ。北斗の拳の無秩序な世界も怖いけれどディストピアも息苦しい。

孤立したいわけでもなくて、楽しくやれたらいいなあ。その程度のサル並のことしか考えてない。お正月だもの。



*1:ホンモノの紅瓢箪は偽名に対しても有効である。

大磯ロングタイム

先日、湘南の大磯に行った。
前回ここを訪れたのは20年以上も前、大学のゼミの先生のお葬式だった。
正確な時期は忘れてしまったが、自分は社会人3年目くらいの時だったと思う。
前日くらいに勤め先にゼミの大学院の先輩から電話があり、
お葬式を手伝ってほしいとのことで休暇を取って大磯の教会へ行った。
先生はカトリックの洗礼を受けていた。
たしか日本共産党の党員でもあった。
マルクス主義は唯物論なので矛盾しているのだが、まぁそんなものだ。
当日は忙しくて仏の顔は拝めなかった。
教会で仏はおかしいけどな。
先輩によるとすごく痩せていたと言っていた。ガンだったそうだ。
極細の外国の葉巻だか煙草だか妙なものをいつも吸っていた。

ゼミは人気がなくて、同期は自分も含めて二人だけだった。
はじめはもう一人いたのだが、栗本慎一郎(タレントとか政治家になる前の話)に心酔しているやつで趣味趣向が合わなかったみたいだ。すぐに辞めてしまった。
一つ上の学年のゼミ生はゼロ。皆無。
二つ上が三人で、そのうちの一人は大学院に進学していた。
修士のゼミ生はもう一人いて、合計二人。
この二人は学部のゼミもオブザーブしていたので、
学部のゼミは、自分たち学部生二人、修士二人と先生の五人だった。

同期のもう一人は、パンク・ニューウェイブが好きだった。
ニーチェとか坂口安吾も好きで多少影響を受けた。
ニーチェは、当時の現代思想、フランスのポストモダンの人たちの間でもブームだったからな。

その同期が学園祭の時、
インディーズのバンドのライブを開催するというので手伝いに行った。
正確には「駆り出された」。
仕事は単純な肉体労働だった。
ステージと観客の間は綱引きで使うようなロープで仕切られていて、
演奏中、猛烈なプレッシャーで押し寄せる観客に対し、
自分はロープの内側に対面で立ち、
そのロープを両手の全力で観客側に突っ張り返すことでブロックする、
という簡単なお仕事。
お客はよそから来た女子高生が中心。
衣装は黒いけれど派手だった。
ただ、トリを飾るバンドが地味だった。
女子高生がドン引きだったおかげで、
そこだけロープを離してまともに聴くことができた。
音楽雑誌フールズメイトの編集長、北村昌士のバンド。
衣装は黒くて地味だった。
音楽はプログレだった^^;
北村氏は、弦が5本あるベースギターに
これでもかとディストーションをかけて音を歪ませて
妙な暗黒の音を発していた。

夏休みの合宿は箱根のある民宿でやることに決まっていて、
その時には博士課程の人も一緒だった。
2、3人だけど。
その中に上海からの留学生もいた。
周さんという人でフランスにも留学経験があった。
本当は日本でビジネスの勉強をしたい、とこっそりと教えてくれたことがあった。
あの中に学者になった人は結局何人いたのだろうか。

就職活動の時期になると、大学院生から進学を勧められることもあった。
けれども先生は、大学院に行くならお金持ちじゃないとダメと言った。
共産主義者のくせに。
でも現実はそのとおりだったのだろう。たぶん。

先生は、大きな企業に行っても幸せになれないと言って、
ゼミのOBが働いているある企業を紹介され、そのOBにも何度かお会いした。
二つ上の先輩の一人は先生の推薦にしたがってその会社に就職していた。
大手電機のグループ企業だった。
でも最終的に、自分も同期もほかの会社に就職することになった。

つい最近、その会社の親会社が不祥事をからむ経営不振に陥り、
その会社を売りに出すという報道を見た。
液晶大手やファストフード大手もそうだけど、
たとえ盤石に見える会社でも来るときは一気に来るものなんだなあと思った。
あれから長い時間がたったけれど、
あの先輩は今頃どうしているのだろうと、
大磯に行ったこともあって、ふと思い出した。

Poupée de cire, poupée de son(その2)

前回に引き続きYouTubeの動画から。




日本語字幕付き。ヨミガナまでついてる^^。こんな歌詞だったのか。「蝋の人形、音の出る人形」。”poupée de son”は「おがくず人形」の方が一般的な意味のようで、この歌詞の中では「音の出る人形」と掛詞になっている、らしい。

”son”って英語の”song”、「歌」と同じ意味だと勝手に思っていた。確認したところフランス語で英語の”song”に当たる言葉は” chanson”であり、”son”は単に「音」という意味なのだそうだ。キューバ音楽の”son”ももとの意味は「音」(スペイン語)とのこと。

ちなみに英語の”son”は「息子」だけれど、日本語では「まご」(孫)のことである。「孫」には「猿」という意味もある。人間の先祖は猿だったらしいけれど子孫もまた猿に帰るとでもいうのだろうか?「そん」なわけないか。そんなわけで来年はサル年ですね。

そんなことはさておき、今年5月にで、かつて東京タワーの蝋人形館にあった人形の一部が六本木のロック博物館に移されているということをご紹介した。

Poupée de cire, poupée de son / 夢見るクラウト人形
http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2015/05/30/234209

ところがこのロック博物館は2か月後の7月末に閉館になってしまった。残念ではあるがあまりに趣味的でとても商売にはなりそうもなかった。仕方がない気もする。

どもあれ、そんなこんなで蝋人形の先生方のお姿をここにアップしておきたい。



クラウス・シュルツ(シュルツェ)



ルッツ・ウルブリヒ



ミヒャエル・ヘーニッヒ



リッチー・ブラックモア

伸脚しながらのギターでもう死にそうな表情。なお、「リッチー・ブラックモア 伸脚」でググるとけっこうヒットする。



トニー・アイオミ



ビートルズの首だけ

サージェント・ペパーズのジャケットで実際に使われたものだとか。
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド



フランク・ザッパ御大



ぜんぜん似てないロバート・プリップ御大。(奥はイアン・アンダーソン)

この蝋人形の先生方に再びお目にかかる日はくるのだろうか?それとももうすでにとろけてしまったのだろうか?

生身のフリップ御大なら最近来たらしい。なかなか好評だったようだ。自分はもう今更見なくてもいいかな、という感じだな。雰囲気的にフリップ御大もついに悟りの境地に達したのか、以前のように脂ぎってない感じがするからね。


なお、前回の記事でヴァージンレコードが創業当初にカンタベリー系のバンドを多く抱えていたと書いた。付け加えるとヴァージンはクラウトロックも多く手掛けていた。リチャード・ブランソンの趣味だな。趣味が傾いているんだから会社が傾くのも無理はないか。

著名な実業家と傾いた趣味がかぶるなんてちょっとばかし光栄である。あんまり関係ないけどな。つーか、自分はブランソンの売ったレコードを川下で買いあさった単なるカモの一人にすぎなかったのであった。^^;

あ、でも自分はあんまりお金持ってなかったから、ほとんどは中古で買ってテープにダビングしたあとで次のを買う資金のためにすぐに売っちゃったんだ^^; ブランソンさんごめんなさい。

The Canterbury Tales

去年だか今年だか、とにかく昨シーズンの冬にYouTubeで見つけた動画が今も気に入っている。



叙情派プログレ、キャラヴァンの「ウィンターワイン」という曲。1971年6月、西ドイツの音楽番組”Beat-Club”での演奏とのこと。

特にバスドラの音が気に入っている、というか気になる。ガムをクッチャクッチャ噛んでいるようなベタベタした音。ンタッ、ンタッ、ンタッ、ンタッ。一般的には「よいサウンド」ではないだろう。どちらかというと品がない。けれどもなんだか気になる。

あとそれから3分40秒辺りからのオルガンソロの導入部、16ビートのハイハットがいったんフェイドアウトした後、8ビートになって再びフェードインしてくる。チッチッチッチと時計の針のように細かく刻む音。その上にオルガンがやはりフェードインして静かに乗っかってくる。この辺りの展開も現在の個人的なツボである。

この曲はこのバンドの代表的なアルバム、”In The Land of Grey and Pink”(グレイとピンクの地)に収められている(A面2曲目)。アルバムのバスドラはこんな妙な音はしない。展開のニュアンスもちょっと違う。

ドラマーはリチャード・コフランという人。派手ではない。そんなに有名人というわけでもない。キャラヴァン自体、それほど売れたバンドではなかった。けれども、ソフトマシーンと並んでいわゆる「カンタベリー系」の主要なバンドとされている。

カンタベリー系」は「カンタベリーミュージック」とか「カンタベリーロック」とも言われる。ウィキペディア英語版)には”Canterbury scene”とか”Canterbury sound”とある。音楽は基本プログレで当初はサイケ、次第にジャズに接近した。けれどもカンタベリー系は音楽の特徴というよりは人脈集団の色彩の方が強い。

イングランド南東部ケント州の都市カンタベリーで、ロバート・ワイアットのおばさんが運営する下宿屋にタムロしていた若者たちがバンド(ワイルドフラワーズ)を作って、やがてそこからソフトマシーンが分離独立してそれなりに売れた。残ったメンバーがこのキャラヴァンになった。

このバンドのベース&ボーカルのリチャード・シンクレアロバート・ワイアットの学校の後輩で、キーボードのデイヴ・シンクレアはリチャードの従弟。デイヴは後にロバート・ワイアットがソフトマシーンを離脱した後に作ったバンド(マッチングモール)に参加した。

その他にもこの人脈集団の中で多くのバンドが出来ては消えた。創業当初のヴァージン・レコードもカンタベリー系のバンドを多く抱えていたので、そのせいでプログレブーム終焉とともに経営が傾き、アナーキー・イン・ザ・UKで起死回生、なんて話も聞いたことがある。

プログレ演奏家もポップ化路線で生き残りを図った人が多くいた。ジェネシスやエイジアのようにビジネス面で大成功した人もいた一方で廃業した人も多かったようだ。

リチャード・コフランの場合、パブの店主になった。90年代半ばにキャラヴァンが再結成された後もパブ経営の方が主業だったようだ。2年前の12月に66歳で他界したらしい。

同じカンタベリー系のケヴィン・エアーズもこの年の2月に亡くなった。68歳だった。今年3月にはデヴィッド・アレンが亡くなった。77歳。オーストラリアからカンタベリーに放浪してきたヒッピー。先輩格で不良どもの憧れだった。


グレイとピンクの地+5

グレイとピンクの地+5

自分研究

先日、あるフルマラソンの大会に参加した。今年4月のデビュー戦に続き、今回で2回目のフルマラソンだった。反省のためにGPS時計の記録をここに整理しておく。

ペースの推移

以下のグラフはy軸が分速(m/min)でx軸が距離(km)。ランナーはペースを1キロ当たりの時間(min/km)で把握することが多いが、分速はその逆数(分母分子を逆転させた数字)になる。

全体的に山なりの形状になった。序盤10kmくらいまで緩やかにペースアップし、後半は徐々にペースダウンした。序盤のペースの遅さは混雑によるものと思われる。目標タイムをクリアするために、ジグザグ走行や路肩の上を走って人を追い抜く必要があった。尤も、序盤突っ込めなかった分、後半のベースダウンが少なく済んだのかも知れないから一概には評価できないところ。


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前回のデビュー戦とはコースも気象条件も異なるので単純な比較には無理があるが、比較対象があった方が評価しやすいので比べてみよう。

前回(黄緑)と今回(青)とを重ねてみると以下のとおり。ペースは全体的にアップし、後半に落ち込む幅も縮小した。全体を通した分速は前回174.8 m/minに対して今回190.0 m/minと+8.6%アップ。一方、1kmごとに区切ったそれぞれの分速の標準偏差は前回12.6m/minに対して8.0m/minと37%程度縮小し、ペースのブレは小さくなった。


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ピッチとストライドの推移

分速(m/min)は1分当たりの歩数(ピッチ)と平均の歩幅(ストライド)に分解することができる(歩数=sとすると、m/min=s/min×m/s)。

yの左軸をピッチ(s/min)、右軸をストライド(m/s)で示した推移は以下のとおり。ピッチと比較するとストライドは不安定で、山なりのペースは主にストライドの影響のようだ。ピッチは後半に時々極端に落ち込むことがあるが、これは補給時に一息ついているためと思われる。


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前回はピッチとストライドともに低下する傾向があった。特に30km以降のピッチは上下に大きくブレている。


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前回と今回を比較すると、ピッチの平均値は175s/minから184 s/minに上昇。標準偏差は7.5s/minから4.5 s/minへ40%程度縮小した。一方、ストライドは平均値が1.00mから1.03mとなり、標準偏差が0.04mから0.03mとなった。
ストライドの変化は誤差の範囲かもしれない。ちなみにGPS時計の計測した距離は、前回が41.66kmで今回が42.35km。42.195kmを挟んで690mの差が生じている。

ピッチとストライドの散布図

同じデータを使用し、y軸をストライド、x軸をピッチとする散布図を以下に示した。赤い星印は平均。ピッチとストライドはの相関係数は+0.15と無相関に近い。


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ピッチとストライドを乗じた積がペース(分速)なので、それぞれの点からy軸、x軸に垂直に線を引いてできた長方形の面積がペースを表す。したがって点が右上にあるほど面積が広がりペースが速い。ただ、ここで面積を比較するためには原点をゼロにする必要があるが、視認性を優先して最小値は途中から始めている。

ちなみに、分速に時間(分)を乗じた積が距離(マラソンの場合は42km余り)であることから、ピッチとストライドを辺とする長方形を底とし、これに高さとして「時間(分)」を乗じた3次元の長方体の体積は距離を表す。だが、面倒な割に実益が少なそうなので視覚化するのは見送った。いずれにせよ、マラソンでは距離(体積)は決まっているから、目標タイム(高さ)を決めれば、あとは「幅×奥行」で帳尻を合わせる以外にない。

前回のデータの場合。全体的に幅が広く右肩上がりに散らばった形状。相関係数は+0.76と高くなった。一部の区間でピッチの低下と同時にストライドも縮小し、ペースが大きく落ち込むことがあった(終盤の上り坂で歩いた時ではないか)。


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前回と今回を重ね合わせたものが以下のグラフ。青が今回で黄緑が前回。全体的に右上にレベルアップしバラツキ具合も縮小したことが分かる。


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ピッチとストライドの散布図(10kmごと)

散布図(今回)を10kmごとに分割して示したものが以下のグラフ。時系列に線でつなぎ、視点に、終点にを付けた。11-20kmのバラツキが小さく最も安定している。後半、次第にバラツキが大きくなり、さらに終盤はストライドが縮小傾向になった。


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ただ、前回の終盤はもっと不安定だった。


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取りあえずのマトメ

  • 前回との単純な比較は困難だが(前回のコースは小さな坂が多く、今回のコースは比較的平坦)、今回はピッチが安定したことが目標ペース(底の面積)の維持にある程度寄与したと言えそう。ただし、後半の補給の時間を短縮することでもっと改善する余地があるかも。
  • 一方、ストライドは引き続き後半に短くなる傾向が目立ち、改善の余地が比較的大きそう。
  • 欲を言えば全体的にストライドの水準を引き上げたいところ。
  • 具体的な改善策は、これ以外のデータとか定性面の評価もないといけないかなあ。また、足だけに注意を向けるとかえってうまく行かなくなる虞がある。ペースを上げるだけである程度自然にストライドは広がるので、それを維持できる力があればいいのかしら。まだまだ基本的な練習が大事ということか。

暇人

暇人に天国はない。
暇人には国もない。
暇人は皆、その日暮らし。
イソジンは明治からシオノギへ。
Love and Peace

―J.レノン名言集より-(ウソ)

12月8日、ジョン・レノンが亡くなってから35年たった。
世の中では盛り上がっているのだろうか?
10周年の1990年にはイラクがクェートに侵攻。当時、米国ではこの曲(??)の放送が自粛されたと聞いた。その代り、湾岸戦争が起きた翌年の1991年にはホイットニー・ヒューストンの「星条旗よ永遠なれ」がヒット。

20周年の2000年はどうだったかしらない。その翌年の2001年には9.11があって再び放送自粛。そんな中でニール・ヤングがテレビで歌って話題に。一方、H.ヒューストンの「星条旗」が再発されて再ヒット。この時、彼女はすでに体を悪くしていたようだ。結局3年前に亡くなった。

30周年は知らない。

35周年の今年は大きなテロがあったりして、盛り下がっているのだろうか?今週(12月9日)、マドンナがパリの「現場」でゲリラライブをやって、そこで歌ったという報道を見た。


そういう自分はジョン・レノンとかビートルズについてあまり知らない。自分の世代でいうとたぶん常識程度かそれ以下のレベルだろう。いい曲すぎると退屈してしまう性格だからだろうか?

退屈してしまうのは、それだけ体に馴染んでいるからと言えるのかもしれない。当たり前のことを何度も繰り返し言われるとウンザリするみたいに、美しすぎるのも飽きてしまう、のかなあ。

ちなみにフランク・ザッパは先日、没後22周年だった。もうじき生誕75周年の日がくる。

ポジティビズム!「論より証拠」論 その7

ワクチンとリスク認知について

インフルエンザの予防接種の季節がやってきた。今シーズンのワクチンは従来のA型2種類、B型1種類のウィルスに対応した3価ワクチンから、B型も2種類にして4価ワクチンになるらしい。だから値上がりするという報道を見た。


トーメーニンゲン♪ アラワルアラワル~♪
ウソを言っては困りますっ!
アラワレナイのがトーメーニンゲンです~!

リスク管理の恩恵は標的とするリスクが顕在化しない(アラワレナイ)というものだから、なかなか実感しづらい一方で、うまくいかなかったときばかり目立ってしまう。「ウソを言っては困ります」なんて思われてしまう。

ワクチン接種による感染症予防も、日本のような経済的に豊かな先進国で、特に健康な成人の場合(ようするに世界の中でも強い人たち)には、アリガタミを感じるのは難しいだろう。小さな確率とはいえ重篤な副作用の可能性もあるからなおさらだ。

当たり前かもしれないけれど、ヒトは天災よりも人災を嫌う。ヒトはなにか行動を起こして1人を犠牲にするよりは、なにもせずに5人死なせるほうを選ぶかもしれない。安易には非難できない。「トロッコ問題」という難題もある(↓)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

しかも、公衆衛生は全体主義的で「上から目線」のパターナリスティックな側面がないともいえないから、反発を感じるヒトがいてもまったく不思議ではない。

ヒトは意識的かどうかにかかわらず、嫌いなものに対しては、恩恵を過小評価しリスクを過大評価しがちだという。逆に好きなものに対しては恩恵を過大評価しリスクを過小評価する傾向がある。

端的にいうと、好きなものはローリスク・ハイリターンで、嫌いなものはハイリスク・ローリターンと映る。福山雅治はローリスク・ハイリターンで、ふつうのおっさんはハイリスク・ローリターンである。当たり前か。この当たり前のココロの傾向には感情ヒューリスティックという名前がついている。

感情ヒューリスティックは誰にでもあることで、自分や他人に好き嫌いで判断するなと掛け声をかけることはできても自ずと限界があるから、そういうのがあることを前提にして柔軟に対応できたほうがいいのかもしれないね。

ワクチン報道について

こんなことを書いたのは、次の報道を見たからだ。

■インフルワクチン:乳児、中学生に予防効果なし - 毎日新聞
http://mainichi.jp/shimen/news/20150830ddm001040149000c.html

または、
http://www.msn.com/ja-jp/news/techandscience/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E4%B9%B3%E5%85%90%E3%80%81%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%81%AB%E4%BA%88%E9%98%B2%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%81%AA%E3%81%97/ar-AAdKfNO

インフルエンザのワクチンを接種しても、6〜11カ月の乳児と13〜15歳の中学生には、発症防止効果がないとの研究成果を、慶応大などの研究チームが米科学誌プロスワンに発表した。4727人の小児を対象にした世界的に例がない大規模調査で明らかになったという。

これは事実なのだろうか。この論文を確認してみよう。

元論文について

プロスワンはいわゆるオープンアクセスジャーナルで、オンライン上で全文を無料で読める。

Effectiveness of Trivalent Inactivated Influenza Vaccine in Children Estimated by a Test-Negative Case-Control Design Study Based on Influenza Rapid Diagnostic Test Results(インフルエンザ迅速試験結果に基づいた検査陰性症例対照研究による小児における3価不活性インフルエンザワクチンの有効性)
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0136539

冒頭の要約部分を以下に和訳してみた。ただし、読みやすいようにコマメに改行して箇条書きにしてみた。

要約
  • 我々は、2013-2014シーズンに日本の22の病院において医学的看護のもとで検査確認された6ヶ月から15歳の小児のインフルエンザに対するワクチンの有効性(VE)を評価した。
  • 我々の研究は、インフルエンザ迅速試験(IRDT)の結果に基づく検査陰性症例対照デザインによって実施された。
  • 38℃以上の発熱により我々のクリニックに訪れ、且つIRDTを受けた外来患者が本研究に登録された。
  • IRDTの結果が陽性の患者は症例として記録され、陰性の患者は対照として記録された。
  • 2013年11月から2014年3月までの間、合計4727名の小児患者(6ヶ月から15歳)が登録された。
  • インフルエンザA型が陽性だった876名のうち、66名はA ( H1N1 ) pdm09で、残りの810名のサブタイプは不明である。
  • 1405名はインフルエンザB型が陽性であり、そして2445名は陰性であった。
  • 全体のVEは46%(95%信頼区間[CI]39-52)。インフルエンザA型、A ( H1N1 ) pdm09、インフルエンザB型に対する調整後VEは、それぞれ63%(95%CI56-69)、77 % ( 95 % CI , 59– 87 ) 、26 % ( 95 % CI , 14– 36 )であり、6~11ヶ月の幼児においては、インフルエンザA型、B型いずれに対してもインフルエンザワクチンは効果的ではなかった。
  • インフルエンザワクチンの2回接種は、インフルエンザA型感染に対して1回接種よりもより良好な予防となった。
  • 入院加療したインフルエンザ感染に対するVEは76%であった。
  • インフルエンザワクチンはインフルエンザA型、特にA ( H1N1 ) pdm09に対して効果的であったが、インフルエンザB型に対してはそれほど効果的ではなかった。

新聞記事とは雰囲気が違っている。もともとB型には効き目がいまひとつと言われているようで、それを再確認する形の結論になっている模様。

「6~11ヶ月の幼児においては、インフルエンザA型、B型いずれに対してもインフルエンザワクチンは効果的ではなかった」と書いてあるけれども、これについては論文の本文を見ると、6~11ヶ月の幼児に対する有効性は、併存疾患などの要素を調整した後の数字で、A型30%、B型は不明、全体(A型+B型の合計)で21%となっている。

これだけだとA型と全体は多少なりとも効果がでているように見えるけれども、95%信頼区間がそれぞれ▲85%~74%、▲87%~67%と下限がマイナスになった。ゼロが効果なし。マイナスは逆効果を示す。95%信頼区間の中にゼロを挟んでプラスとマイナスに割れるというのは、5%の有意水準統計学上の有意差がなかったということ。

有意差がないということは、効果が確認できなかったということにはなるのだけれども、95%信頼区間は幅がとても広い。幅の広さは結論の精度が低いことを示している。この広さはなにも言えることがないくらいだと思う。

なんで精度がこんなに低いのかというと、真っ先に考えられるのはサンプルサイズ。実際にこの論文では6~11ヶ月のB型に関しては人数が少なすぎるとして評価を見送って不明とした。

6~11ヶ月の幼児の人数が215人。検査結果の内訳は、A型陽性が39人、B型陽性が10人、陰性が166人だった。

A型陽性39人のうちワクチン接種者は6人、評価を見送ったB型は、陽性10人のうちワクチン接種者は2人だった。すなわち、A型とB型の合計は、陽性49人で、うちワクチン接種者は8人となる。一方、検査陰性の166人のうちワクチン接種者は34人だった。

A型の場合でこの前紹介した2×2表*1を埋めるとは次のようになる。


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オッズ比は(6/34)÷(33/132)≒70.6%。つまり、A型検査陽性はワクチン接種によって70.6%に減った。ワクチンの効果(VE)は、29.4%(=1-70.6%)だ。ワクチン接種はA型検査陽性を29.4%減らした。この数字にさっき書いたような併存疾患、地域差、発症からの期間の影響を調整して、調整後VEを30%と見積もっている。

でも、一つの研究結果は一つの確率的事象に過ぎない。サイコロ振って1の目が出ても、サイコロの目が全部1だというのはおかしいから、統計学のテクニックを使ってこの結果の評価を行う。ここでは一般的な方法である区間推定を使っている。個々のサンプルのバラツキ具合から95%の頻度で的中する範囲を推定する。たとえば、同じ実験を100回やったら95回くらいはこの区間におさまるだろうと考えられる範囲。

サンプルサイズが小さいので95%信頼区間は▲85%~74%と大きく広がった。A型を74%減らすこともあり得るし、逆に85%も増やすこともあり得てしまう。これは効果がないことが分かったというより、精度の問題で結論が出せなかったという方が妥当だろう。効果がないとハッキリいうのなら、信頼区間はなるべくゼロ(オッズ比=1)に近い狭い範囲に落ち着かないといけない。

13~15歳も有意差が出なかったけれども、やはり人数が少なくて信頼区間が広い。また、他の年齢層と違って1回接種のケースが多いことも関係しているかもしれない。

ちなみに上の新聞記事では、とても大規模な調査で効かないことが判明したみたいに読めてしまう。よく読むと文法的にはそう書かれていないのかもしれない。プロが書いているだけあって予め逃げ道が用意されている文章な感じもする。そうだとすると意図的に偏らせているということになるのだろうけれどわからない。考え過ぎのような気もする。

症例対照研究(ケース・コントロール・スタディ)

今回の研究デザインである症例対照研究は、結果が分かってから、その前の時点を振り返って特定の曝露状況を調査するというスタイル。時間を遡る形のいわゆる後ろ向きの研究で、時間やコストなどのリソースを節約できるけれども、たとえば臨床試験のように時間の流れに対して前向きの研究と比較すると、一般論としてはバイアスが入りやすくて信頼性が劣るとされている。

ただ、事件は実験室で起こるのではなく現場で起こっているから、常に理想的な方法でなければ無意味ということではない。やれることをやって、理想と離れている分は、ある程度、結論を割り引いて考える必要があるかもということになる。

インフルエンザの流行期、38℃の発熱のある患者にインフルエンザの検査をすることは医療的にも意味のあることだから、医療上の必要性のない人を実験だけの目的で検査するより倫理上の課題も少なかったり、いろいろと都合がいいのだろう。たぶん。

オープンアクセスジャーナル

伝統的な論文誌の場合、投稿は無料で読者が費用を負担する。一方、オープンアクセスは投稿者が費用負担して論文を掲載してもらう仕組み。

メリットもあるがデメリットもあり、中には金さえ払えば内容を問わず掲載してくれる雑誌もあるとされる。プロスワンはその中ではマシな方だろう。というか、あまりにもインチキ科学誌が多いから、かなり真っ当な方と言えると思う。ある研究で、オープンアクセスジャーナルにインチキ論文を送り付けたところ、プロスワンはきちんとリジェクトしたらしい*2

それでも査読は比較的緩めで、その結果として内容は玉石混合なので、オープンなのはいいにしても、その割に自分のような審美眼を持っていない素人が読むには扱いがやっかいかもしれない。しょせん生半可なのに分かったつもりで読んじゃうとヤケドしそう。

けれども権威のある科学誌も完璧にはほどとおい。ヒトのやることだからひどい場合には捏造もある。そもそも予想に反して不都合な結果が出てしまった研究は、お蔵入りしてどの科学誌にも載らないケースも考えられる。これには出版バイアスなんて名前がついてる。

だから一つの論文で結論が決まることはなく、独立した研究によって繰り返し再現されることが重要になる。できれば方法論的により優れた研究デザインで。

本日のBGM

とりあえず今日はこれ。


*1:http://sillyreed.hatenablog.com/entry/2015/08/23/212640

*2:https://www.sciencemag.org/content/342/6154/60.full “ PLOS ONE, was the only journal that called attention to the paper's potential ethical problems, such as its lack of documentation about the treatment of animals used to generate cells for the experiment. The journal meticulously checked with the fictional authors that this and other prerequisites of a proper scientific study were met before sending it out for review. PLOS ONE rejected the paper 2 weeks later on the basis of its scientific quality.”